竹野神社

今日は丹後半島の北西部に位置する、
京丹後市丹後町宮にある竹野(たかの)神社を紹介します。




この案内板の内容を説明致しますと、

“ 竹野神社は『延喜式』の神名帳で大社として記されている。
祭神は天照大神であり、本殿と並んで摂社斎宮神社があり、
祭神として日子坐王命、建豊波豆良和気命(たけとよはすらわけのみこと)、
竹野媛命(たかのひめのみこと)を祀る。
竹野媛は丹波大県主由碁理(たにはのおおあがたぬしゆごり)の娘で、第九代開花天皇の妃となる。
古事記』『日本書紀』にも記され、竹野神社は竹野媛が年老いて天照大神を祀ることに始まると伝えられる。
  斎宮神社には、第三十一代用明天皇の皇子である麻呂子親王も祀られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師
の伝承がある。この伝承は、『等楽寺縁起』『斎明神縁起』として絵巻に描かれ、
京都府登録文化財となっている… ”


と、このように記されています。


『斎明神縁起』は、伊勢参籠の物語など伊勢神との関係が強調され、
酒呑童子の話の影響が見られます。



竹野神社の摂社の斎宮(いつきのみや)は、丹後一円の漁業関係者は“いっつきさん”と呼んで崇敬しているようです。
古代の海岸線が、この宮の付近まで及んでいたと考えるなら、汚れた身体を海水で洗い浄める禊(みそぎ)神事があったのかもしれません。
禊神事はもと、朝鮮半島や南方の風習であって、対馬海流の運んできた文化のひとつなのかもしれません。



ひっそりと静かな社殿でした。



奥へ行くと、



本殿が見えてきました。




本殿のさらに背後にはまたこのような社殿がありました。
これが斎宮なんでしょうか…?




竹野神社から海の方に向かって、延々と参道が続いていました。




最後に、竹野神社のすぐ近くの浜辺にある丹後の自然遺産のひとつ“立岩”を見てみます。
大学時代に友人と初めてこの土地を訪れて気に入ってしまいました。
この丹後半島という土地は、地形、地質、景観と特異であり、
数々の伝説や歴史遺産が多くあるんです。
これまで北は北海道から南は鹿児島県の屋久島まで、
日本のいろんな美しい景観を見て来たんですが、
そのなかでもこの丹後半島はとりわけ気に入ってるところです。


奈良を思う

過去のことを追究すること、
歴史学とは…
最近ずっとあれこれ考えているわけですが、
今現在生きている人の肖像を描いてみることは簡単です。
今現在姿かたちのない過去に生きた人の肖像を描くことは、
過去になればなるほど、
また史料が少なければ少ないほど、
それは難しくなります。

現在、過去を問わず人としてどう生きたのかを追究することに、
歴史としてのひとつの意義があるのではと自分なりに思ったりします。
そう思うのは人として…。






これは聖徳太子誕生の地とされる橘寺です。
九月に訪れました。
初秋の陽光がまばゆいですね。
写真はすべて去年訪れた時のものです。


これは正面から眺めたところです。



そして橘寺の向かい側にある川原寺(かわらでら)です。
この寺は天智天皇が母の斉明天皇追善のため、母帝の殯(もがり)を行った
飛鳥川原宮に建てられたと考えるのが妥当と思われます。



ここは藤原京大官大寺(だいかんだいじ)跡です。
「大官」とは天皇をさし、天皇みずからが建立した国家の中心寺院であることを意味します。


今はもう影も形もないのですが、
自分には当時の伽藍が浮かんでくるのでした。



大官大寺跡から逆方向を眺めたところです。
前方に見える小高い丘は天香久山です。
秋の澄んだ風に吹かれて、黄金色の稲穂が揺らいでいました。



そしてこれは藤原京の本薬師寺跡です。
この白い花の絨毯は、ホテイアオイです。
一面に咲き誇ったホテイアオイが、ここを訪れた自分を祝福してくれているようにも見えました。
淡い青色をしたホテイアオイの大合唱です。
ただ、ただ、感動でした。
周辺の休耕田を利用して約14000株が植えられています。
8月中旬から9月中旬にかけて見頃を迎えるようです。



歴史、
それは常に一本の線でつながっていると、
ある本には書かれてありました。
自分は日本史のすべてに精通しているわけではありません。
だから本当の意味での歴史好きではないのかもしれないと、
少し悲観的に考えたりするのですが、
それぞれの価値観、それぞれの心に思い描く情景は皆ちがっています。
それは唯一無二のものだと思います。



興福寺です。



興福寺南円堂です。




猿沢の池から眺めた興福寺五重塔です。
この風景は奈良の代名詞のようなものでしょう。



“ 春の苑(その) 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(おとめ) ”


☆歌意、

《 春の庭園で、紅色に映える桃の花が樹下を明るく照らしている道に、出て立った娘よ。》


これは大伴家持越中国司時代に歌った歌です。
家持の歌の中でも、好きな歌のひとつです。
この歌からは、春の陽光に照らされた明るい情景が浮かんできます。
今はまだ、冬と春の狭間で季節の流れが一進一退です。
この歌のように春の陽光が満ち満ちて来るのは今しばらく先のようです。


大伴家持は自分が大学四年間を過ごした奈良の人です。
ずっといつもとなりにいるような気がしました。



大学当時、一年がほんとに長かった。
今現在自分が感じる時間感覚からすると一年が三年ぐらいのようにも感じられました。
一年一年にどれだけの思い出が敷き詰められているのか。
ずっと春の苑ですね。



友人と当時を思い返しても、お互いが夢のようだったと今でも語り合います。
あの時が夢だったのか…、今現在が夢なのか…、
そういう感覚にも陥ります。
今ある自分なんてまったく想像し得なかったあの時です。
永遠に続くと思われた四年間でした。
あの時の人格形成が、後の人生にどれだけの影響を及ぼしたのでしょう。
今ある自分の根源が凝縮されているようです。




憧れの人、
憧れの土地、
憧れの空の下…。


今となっては憧れにも似た感情を抱くようになってしまいました。




“ 青丹よし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく いま盛りなり ”


この歌は、小野老(おののおゆ)が大宰少弍として赴任した遠い九州の地で奈良を懐かしんで詠んだ歌です。
今、遠く離れているからこそこの歌が心に強く響いて来るわけです。



いったん、都が平安京に遷された後、
平城上皇は廃都になった平城京に宮を造営しました。
これが公式記録にみえる平城宮の最後の大造営です。
上皇は、奈良の都に強い愛着があったんでしょうか。



元明天皇によって藤原京から平城の地に都が遷されたのは七一〇年三月十日。
それから桓武天皇によって長岡京に都が遷されるまでの七四年間が古代の奈良時代です。



桓武天皇長岡京に都を遷した七八四年からすると、
一二一〇年後の
1994年3月、自分たちは奈良の地をあとにしました。



自分にとっての奈良での大学四年間。
唯一無二の奈良時代です。
それは自分の永遠の宝物です。


今ここにいる自分の存在理由は過去にあるのでしょうね。
それが歴史なのかもしれません。
憧れの空の下を今思います。

恭仁京跡

国道一六三号線を何度通ったことでしょう。
月ヶ瀬村や伊賀方面へ、よく遊びに行ったものです。



ハンドルを左に切ってほんの三分ほどでそこへ行けるのに、
当時はそんなものは知っているはずもなく、いつも素通りしていました。



この周辺、ほんとにのどかなところでした。
これは去年の四月に奈良を訪れた時に、恭仁京跡へ立ち寄ってみた時のものです。

 


“考えるところあって今月末からしばらく関東(鈴鹿関の東)に行幸しようと思う。
このようなことをしている場合ではないけれども、しかたのないことである。
将軍(大野東人)はこのことを知っても驚き怪しむことのないように”


藤原広嗣の乱のまだ終わらぬさなかの七四〇年十月二十六日、聖武天皇はこの内容の勅を、
広嗣追討に当っている大野東人に送った後、東国行幸の旅に出てしまいます。

ここからの、聖武天皇の彷徨五年をどう推理したらいいのでしょう。
素人の自分には理解できません。



伊勢詣からはじまった聖武天皇の彷徨は、「壬申の乱」で大海人皇子が通った進軍ルートと
ほぼ重なるようです。聖武の曾祖父である大海人皇子を自身に投影させたのでしょうか。
ひとつの説としてこのように言われています。


伊勢詣の後、伊勢湾岸を北上し不破頓宮において恭仁京遷都の決断を下しました。
その後琵琶湖東岸を通って十二月十五日に恭仁京に入っています。
なぜ伊勢国行幸の帰路を、いったん平城へ戻らずそのまま新京へ入ってしまったのか。
ここから後は紫香楽宮難波宮と、次々と都を移し替えて行きます。


七四三年十月、紫香楽宮で大仏鋳造の詔が下されました。
造営中の恭仁京の造営はここに停止されました。
続日本紀』は、七四三年の末までに恭仁京造営が未完成のまま中止されたことを述べています。




大伴家持恭仁京においてこんな歌を歌っています。



言問(ことと)はぬ   木すらあぢさゐ
  諸弟(もろと)らが
    練りのむらとに   詐(あざむ)かれけり


この歌は、恭仁京にいる家持が奈良の坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌です。
坂上大嬢は家持とは従兄であり、そして正妻となる人です。
歌意は省略します。


従一位、太政大臣

太政大臣とは、律令制太政官の最高の官です。
大宝令では唐の三師・三公にならい、天皇の訓導の官で、適任者がいなければ
欠員でよいという則闕(そっけつ)の官とされる一方で、太政官首席大臣として詔書・論奏や
勅授位記に著名すると規定されました。
定員一人、一品、正従一位相当。
十世紀以後、摂政・関白は太政大臣から離れた独自の地位となり、
太政大臣は名誉職的な存在となりました。


仁安二年(一一六七)二月十一日、
平清盛太政大臣に昇任しました。
その二十五日、清盛は安芸の厳島に出向いています。
これは、所願が成就したことを厳島神社に報告するためのものと思われます。














“ 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ ”


これは柿本人麻呂が歌った歌です。


歌意は、
「近江の湖、夕べの波の打ち寄せる水際の千鳥よ、お前が鳴くと心も打ちなびいて
往古が偲ばれてならない。」



近江大津宮は六六七年に天智天皇によって飛鳥から都が遷されました。
しかし、六七二年の壬申の乱における近江朝廷側の敗北によって廃絶しました。
わずか五年四ヶ月でした。
その人影のなくなった大津宮を偲んで詠んだ歌のようです。


天智天皇の皇子、大友皇子は六七一年に太政大臣に任じられました。
この年、病の重くなった天皇は後事を皇太弟の大海人皇子(天武天皇)に託そうとしましたが、
大海人はこれを辞退しました。
天皇の死後、大友皇子は近江朝の中心として、吉野に移った大海人を警戒し対立したが、
翌年の壬申の乱で大海人の軍に敗れ山前で自害、その首は不破(岐阜県不破郡)の大海人皇子
軍営に運ばれました。大友皇子が即位したかどうかは明らかではありませんが、
大日本史」は皇子の即位を認めて大友天皇本紀をたて、一八七〇年(明治三)明治天皇から
弘文天皇と追諡されました。
太政大臣任命はこの大友皇子が初例です。


清盛の太政大臣任命は、これより四九六年後になるわけです。



自分の心を見るに、
なかなか奈良時代から抜け出せなくなってしまいました。
それは多分、大学時代四年間を奈良で過ごしたことが大きいでしょうね。

下鴨神社

ひっそりとしたたたずまいでした。
糺の森です。
京都市内にあるのを忘れてしまうぐらい静かでした。
去年の暮れに、この辺で大河ドラマ平清盛』の撮影があったのでしょうか。


このたたずまいが、奈良の春日大社を思わせました。
静かで。
この日はじめて下鴨神社に参拝しました。



下鴨神社賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)ともいいます。
祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)。
上賀茂神社とあわせて賀茂社と総称されることが多いようです。



社殿のあちこちでひたひたと落ちる水滴は何だろうと思ったら、
数日前に降り積もった雪が、屋根から流れ落ちる雫だったのです。
屋根にうっすらと雪が残っていました。



静かで、心が洗われるようで、
すっかり下鴨神社が気に入ってしまいました。



賀茂祭は、上賀茂神社下鴨神社の祭りをいいます。
京都三大祭りの一つです。



四月中酉の日に行われましたが、現在は五月十五日。
葵の葉を社前や牛車にかけ、供奉者が衣冠につけたことから葵祭ともいわれ、
古代にはたんに祭といえば葵祭をさした。
石清水八幡宮の南祭に対して北祭ともいいます。




西行は、賀茂社を深く愛していたようです。
こんな歌もあります。


“ 思ふこと 御生(みあれ)の標に 引く鈴の かなはずばよも ならじとぞ思ふ ”



西行は、北面の武士の時代に、
賀茂祭に警備のために供奉していたのかもしれません。


西行庵

西行について、まだ深く知らないんですが、
桜をこよなく愛した人物だったようです。


俗名、佐藤義清(のりきよ)。憲清とも。
武門の家に生まれ、
鳥羽院北面の武士として仕え、
和歌・蹴鞠などに活躍した。
一一四〇年、二三歳で出家。
その後、仏道と和歌に励み、高野山伊勢国に住する一方で、
奥州・四国などを旅した。
「詞花集」に一首、「千載集」に十八首入集したが、
死後成立した「新古今集」には最多の九十四首が選ばれ、歌人としての名声が高まった。
旅する歌僧として伝説化され、その和歌とともに幾代の文学に大きな影響を与えた。


西行庵は、京都市左京区高台寺の北縁にありました。




西行の歌に、こんな歌があります。


“友になりて おなじ湊を 出船の ゆくへも知らず 漕ぎ別れぬる”


☆現代語訳
《友となって、同じ港を一緒に出たのに、やがて行方も分からないほどに漕ぎ分かれてしまった。》



平清盛西行は同い年でした。
また平清盛と出家前の西行も同じ鳥羽院北面の武士でした。


歌は、人としての存在そのものも、たどる道も唯一無二だということを意味しているのだと思います。


平清盛、一一一八年 〜 一一八一年閏二月四日没。
西行、一一一八年 〜 一一九〇年二月一六日没。

乱、前夜に生まれて

ゆく河の流れは絶えずして…






平家物語が、琵琶法師によって語られて来たように、
この時代を思い浮かべる時、自分のなかではまず琵琶、
琵琶の音色が響いて来ます。


質素で、重く響く琵琶の音色が。







この激動の世に生き、後年、ひとり隠遁生活を送ります。


ゆく河の流れは絶えずして…



そして、一一七七年の京都大火をこう語ります。


“去安元三年卯月廿八日かとよ、風烈しく吹きて、静かならざりし夜、
戌の時ばかり、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには、朱雀門
大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。
火元は樋口富の小路とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。


吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。
遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔(ほのお)を、地に吹きつけたり…。”




安元の大火の火元と思われる樋口富小路は、五条大橋からそう遠くない所にありました。



また、一一八〇年に京都で吹いた暴風をこう語ります。


“また、治承四年卯月のころ、中御門京極(なかみかどきょうごく)のほどより、大きなる辻風おこりて、
六条わたりまで吹ける事侍りき。三四町を吹きまくるあひだに、こもれる家ども、
大きなるも、小さきも、ひとつとして破れざるはなし。
さながら平に倒れたるもあり、桁柱ばかり残れるもあり、門を吹き放ちて四五町がほかに置き、
また垣を吹きはらひて隣とひとつになせり。いはむや、家のうちの資材、数を尽して空にあり。
檜皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。”


ここは丸太町橋
中御門大路はこれより少し右にずれて通っていたようです。
中御門京極は、中御門大路と東京極大路の交わる所ですので、辻風の起こった所はこの前方辺りと思われます。


ゆく河の流れは絶えずして…



俗名、かものながあきら。
ゆかりの社は京都、下鴨神社の敷地内にありました。



河合神社です。



ひっそりと、静かな社でした。




これは復元された方丈です。



鴨長明
賀茂御祖神社の神事を統率する鴨長継の次男として京都で生まれました。
和歌を歌林苑の主宰者俊恵に、琵琶を中原有安に学びました。
望んでいた河合社の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされ、
後に出家して蓮胤(れんいん)を名乗りましたが、一般には俗名を音読みした鴨長明(かものちょうめい)で知られています。
晩年には日野に移住し、四畳半ほどの方丈の庵を造り日野山の奥に隠棲したといいます。



 “ ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。たましきの都のうちに棟を並べ、
甍を争へる高き賤しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年作れり。
或は大家ほろびて小家となる。
 住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへみし人は、
二三十人が中にわずかにひとりふたりなり。朝に死に夕べに生るるならひ、
ただ水の泡にぞ似たりける… ”



☆現代語訳
《 川は涸れることなく、いつも流れている。そのくせ、水はもとの水ではない。
よどんだ所に浮かぶ水の泡も、あちらで消えたかと思うと、こちらにできていたりして、
けっしていつまでもそのままではいない。
 世間の人を見、その住居を見ても、やはりこの調子だ。壮麗な京の町に競い建っている貴賤(きせん)
の住居は、永久になくならないもののようだけれども、ほんとうにそうかと一軒一軒あたってみると、
昔からある家というのは稀だ。
去年焼けて今年建てたのもあれば、大きな家が没落して小さくなったのもある。
 住んでいる人にしても、同じこと。所は同じ京であり、人は相変わらず大勢だが、
昔会ったことがある人は、二、三十人のうち、わずかに一人か二人になっている。
朝死ぬ人があるかと思えば、夕方生まれる子がある。まさによどみに浮かぶうたかたにそっくりだ。》


鴨長明、『方丈記』より。




また、時を同じくしてこの世に生き



文治元年三月、壇ノ浦の戦いで生け捕りにされ、平家の公達とともに、都へと連行されて行きました。
瀬戸内海沿岸を、この辺りも通って行ったのでしょうか、
写真は2008年に訪れた時のもので、広島県安芸津町辺りの海岸です。
前方左に見えるのは大芝島です。



虚構まじりの物語でも、
真面目に向き合ってみたいのです。



義経が、平家の生け捕りどもを連行して明石付近にさしかかった頃のことを、
平家物語はこう記述しています。


“同十四日、九郎大夫判官義経平氏男女のいけどりども、相具してのぼりけるが、
播磨国石浦にぞつきにける。名をえたる浦なれば、ふけゆくままに月さえのぼり、
秋の空にもおとらず。女房達さしつどひて、「一年(ひととせ)これをとほりしには、かかるべしとは思はざり
き」なンどいひて、しのびねに泣きあはれけり。”


☆現代語訳
《同月十四日、九郎大夫判官義経は、平氏の男女の生捕りどもを召し連れて上ったが、
播磨の国明石の浦に着いた。月見の名所として有名な浦なので、夜がふけてゆくにつれて、
月が澄んで空高く上り、今は夏だが秋の空にも劣らない。
女房達は寄り集まって、「先年ここを通った時には、こんなことになろうとは思いもしなかった」
などといって、忍び泣きにみんな泣いておられた。》


写真は明石の大蔵海岸公園から対岸の淡路島を眺めたところです。
2010年の10月に訪れた時のものです。



京都、長楽寺。
当寺はもともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持った有名寺でありましたが、
大谷廟建設の際幕命により境地内を割かれ、明治初年境内の大半が円山公園編入され今に至っています。



建礼門院の目に、この山の線がどう映ったんでしょうか。
じっと強く見つめてみました。




平清盛の娘、建礼門院徳子が壇ノ浦の戦いの後、京都に連れ戻され、
最初に身を潜めたのが東山の麓にあるこの長楽寺といわれています。
そして五月一日に出家しています。



後に大原寂光院に移り住み、余生を送ったのは周知のとおりです。




中学の時、一途に、建礼門院徳子に対して深い悲哀の念を抱きました。
五年前に一度参拝しているので、この日は参拝しませんでした。


建礼門院鴨長明はさらされた境遇は違いますが、
時を同じくして世を送りました。
ともに保元の乱前夜に生まれています。


鴨長明、一一五五年〜一二一六年閏六月没

建礼門院、一一五五年〜一二一三年十二月十三日没

(生没年は諸説あるようです)