平家の落人村2 鳥取県落折村と、平経盛隠棲の洞窟



ここ『落折(おちおり)』村は鳥取県は、因幡地方の東南部八頭郡若桜町(やずぐんわかさちょう)の山間にあり、兵庫県境の戸倉峠から少し下った所で、国道29号線沿いにあります。ここもまた周囲が山によって閉ざされており隣の村からも少し離れてぽつんと孤立した集落です。そしてこの村の家の名は、なんとすべて『平家』だといいます。“へいけ”と読むのか、あるいは“ひらいえ”と読むのか今のところ僕にはわかりません。そしてまたこの『落折』は、そのむかし元暦二年(1185年)三月二十四日壇ノ浦に敗れた平家の将平経盛(たいらのつねもり)たちが、源氏の追及の眼をのがれるために、中国山脈を越えてこの地へ落ちのび経盛は岩屋と呼ばれる洞窟(落折村から谷づたいに氷ノ山へつづく道を約1キロほど登ったところ)に隠れ、人目をさけてくらしていたとのことです。いったい『落折』とはどんな集落なのか、そしてその平経盛が隠れ潜んでいたという洞窟とはどんなところなのか、これから紹介していきます。なお、平経盛平清盛の異母弟で敦盛の父になります。

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表札をちらっと見ましたが、たしかにみんな『平家』です。
                                   
 


 集落の奥から山道を登って行くと、こんな花も咲いていました。
                                 


 こんな巨岩も谷間の真ん中にあります。長い年月をかけて上流から転がって来たのでしょうか?



 ここを登って行くと…             
                                        


 前方に見えて来ました、巨岩が。        
                                        


 すごい巨岩です。平経盛の洞窟はこんな農道のすぐ脇にあるのです。

                                
 


平経盛の隠棲の洞窟案内標識です。かわいらしい人形がぶらさがっています。

                            

 


 案内標識すぐ横のこの階段を上がればすぐです。農道から10メートルほどでしょうか。                       


 


 そしてここです。                                    

 


 大人がしゃがんで二人入れるぐらいの小さな洞窟です。洞窟というよりは小さなほら穴といった感じですかね。


 


 このようにすぐ下に農道が通っています。

                                            


 いったい本当に平経盛はこの地へ逃げて来て、このさして大きくもない洞窟に潜んでいたのでしょうか? しかし、平家の残党狩りは徹底されていたようです。壇ノ浦の敗戦後、源頼朝の妻・政子の父親、北条時政が上洛し、その指揮で、平家の残党探しが始まります。時政はお布令を出して、平家の子孫を密告した人間には、望むかぎりの褒美を与えると公表しました。呼びかけにこたえて、続々と情報がよせられ平家の残党たちは殺されていきました。それは、子供にまで及んだそうです。おそらく平経盛も山奥の寒村の奥の、この巨大な岩石に囲まれた小さな洞窟に潜んで脅えながらその当時の日々を過ごしたのではないでしょうか。また、平経盛の伝説地は四国の愛媛県にもあります。前回ご紹介しました平教盛の伝説地と同じ土地です。愛媛県西宇和郡保内町宮内には平家谷と呼ばれる土地があります。この平家谷伝説の概略をのべますと、文治元年、壇ノ浦の戦いに敗れた平教盛、経盛、維盛、資盛、有盛、行盛らは安徳天皇を守り、一族郎党を従えて瀬戸内海にのがれ、愛媛県西宇和郡伊方町保内町の西となり)の伊方越に上陸し、平家谷に落ちのびた一族はこの地を安住の地と定め農耕生活に入ったそうです。しかし、街の図書館で借りたある本には、“鳥取県八頭郡若桜町に経盛の供養塔や墓などがあり、落折には経盛の末裔と称される一族が住んでおられ、こちらに注目せざるを得ない” と、記されています。しかしなぜ平家一門の同じ人物の伝説地が各地にまたがっているのか、僕自身もいろんな本を読みあさりまして、諸説あるようですがはっきりしたことは今のところわかっていません。          経盛の隠棲洞窟をあとにし山道を下って行って落折の谷間を眺めると何か経盛たちの悲哀がこもっているようにも思えました。          

 


 そして落折部落から車で15分ぐらいでしょうか、国道29号線を少し下ったところの岩屋堂という地区に平経盛の墓と伝えられているものがあります。そのすぐ付近には日本に三つしかないといわれる山の岩肌に掘られた投入堂様式の建築を誇る『岩屋堂』があります。平安初期に飛騨の匠によって建築されたそうです。

                                            

 


そして岩屋堂前には先ほどの経盛の洞窟と同じような案内標識があり、ここからすぐ近くに経盛の墓があります。             



 この川の小道をまっすぐ150メートルぐらいでしょうか。                                   

 


 真ん中が経盛の墓です。ふつうの墓の形とは少し違います。となりの墓も一族のもののようです。                   


 


 兵庫県北部と鳥取県東部には平家伝説の地は非常に多くあります。僕の平家伝説地巡りはまだ続きます。この日も猛暑でした。