源平合戦一の谷古戦場跡

三日前、カンカン照りのさなか神戸市須磨区須磨浦公園へ行ってみました。平家の足跡を追い続けて3年3ヶ月になります。ここは源平合戦の一の谷の戦いがあったところです。有名な『鵯越の坂落とし』の場所です。義経率いる源氏軍が山の上からの奇襲攻撃を決行したのは今から826年前の1184年(寿永三年)2月7日の早朝のことです。戦場となった須磨浦公園はすぐ北側に、西の鉢伏山(はちぶせやま)から東北部の鉄拐山(てっかいざん)へ連なる山が海岸付近まで迫っていてその山と海の間を東西に細長く続く公園です。全域が松林になっていて所々に公衆トイレやベンチがあって天気のいい日は人々がベンチに寝そべったりしてくつろいでいます。義経軍がどのルートを辿って戦場となった須磨浦公園に下りて来たのかは諸説あるようです。又、“鵯越”という地名は鉢伏山〜鉄拐山を含む広い範囲に及んでいて、そのため坂落としの場所は兵庫区と長田区の北部の境目ひよどり展望公園付近という説もあります。事実はどうだったのでしょう。 まず須磨浦公園駅横のコイン駐車場に車を留めて徒歩で鉢伏山に登ってみました。これは駐車場から見上げた鉢伏山です。標高248メートルあります。山頂へはロープウェイも通っています。 ロープウェイが小さく見えますでしょうか?                         

鉢伏山頂への山道です。        


                           
下の写真は鉢伏山中腹から明石海峡方面を撮ったものです。画面右上に明石海峡大橋が小さく見えます。その左側に見える陸地が淡路島です。『延慶本平家物語』には、義経軍はこの鉢伏山から下って行ったと書かれているようです。ここの傾斜角度ならゆっくりなら下りれなくもないなと思われます。戦場となった須磨浦公園はこの画面では見えないですがもう少し左下の方になってしまいます。

鉢伏山山頂にある展望台です。


 下の写真は展望台からちょうど真下の須磨浦公園を撮ったものです。右のほうには防波堤のようなものがありますが、海釣り公園です。写真ではもうひとつ感じることはできないですが、ここからの鉢伏山の傾斜角度はすさまじいものです。崖と言ってもいいぐらいです。こんなところからはとても馬で駆け下りるなんてことは出来そうにありません。


次の写真は、上の写真よりももう少し左のほう、神戸市街を撮ったものです。ここから延々と大阪、岸和田、阪南へと市街が続いています。826年前のこの光景はどうだったのでしょう。もっと砂浜が広がっていて所々に木が生えていて、村が点在していたようなそんな光景だったのではないでしょうか。


ここで須磨浦公園周辺の地図を載せてみました。おおまかな地図ですがわかりますでしょうか。須磨浦公園のすぐ背後に鉢伏山があります。そこから東北方向に山が連なっていて鉄拐山トンネルがあります。その鉄拐山トンネルの手前の頂が鉄拐山でどちらかというと鉄拐山のほうから義経軍が下って来た可能性が高いと、とある本には書かれてありましたが…。僕は須磨浦公園から鉢伏山に登りそこから尾根づたいに鉄拐山方面に進み、鉄拐山の手前の分かれ道で一の谷町へ下りて来ました。その鉄拐山手前からの一の谷町へのルートが義経軍が下って行ったルートとやはり推定されているようです。
そして次がその鉢伏山から鉄拐山へ続く尾根づたいの道です。写真では向こうが真っ暗に見えますが実際はもう少し明るいです。このルートはハイキングコースになっていて何人かの登山者とすれ違いました。ジョギングしている人さえいました。道の両側は急斜面です。義経は2月6日の夜にこの山中に登ったようですがどのくらいの時間、こんなうっそうとした山の中にいたのでしょうか。                                    

しばらく行くと『坂落とし』の案内板が…。ここからの分かれ道が義経の進軍路のようです。

そしていよいよ下って行きます。写真は向こうが真っ暗ですが、実際はここまで暗くはありません。                   


途中、義経道を下から見上げてみました。本当に義経はここを下って来たのでしょうか。その当時も山道はあったのでしょうか。ひょっとすれば、道なき道ではなかったのでしょうか。しかも早朝です。午前6時前後だったようです。まだ2月ですから薄暗いはずです。                                       

そして道の両側は急斜面です。崖と言ってもいいぐらいものすごい傾斜角度で谷底へ下っています。足を踏み外せば馬といっしょに谷底へ落ちてしまいます。写真ではわかりにくいですが現地へ行ってみればわかります。しかしどうやって騎馬で下りて行ったのでしょう。まず、駆け下りるということは考えられません。じわじわと下りて行ったのでしょう。 本当に急斜面です。道の両側は崖です。         



  義経進軍路も最終にさしかかり、前方に一の谷町が見えて来ました。この階段の左側、ほとんど垂直の崖です。826年前、ここはどのような地形だったのでしょうか。どうやってこのあたりを馬で下りて行ったのでしょうか。ここでまたそう思いました。          
  義経進軍路の山道は終わり一の谷町に出ました。                                        


これは一の谷町の一部ですがこういうカラフルな家が多く建ち並んでいます。なんか地中海沿岸地域に来たような気分にもなります。  
 


右手の背後に見えるのは鉢伏山です。                         


 ここで、平家物語の『坂落』の章の一部を引用してみます。“小石まじりのすなごなれば、ながれおとしに二町計(にちょうばかり)ざっとおといて壇なる所にひかへたり。それより下を見くだせば、大盤石(だいばんじゃく)の苔むしたるが、つるべおとしに十四五丈ぞくだったる。
”壇なる所というなは一段平らな所のようです。僕は大学時代地理学科にいましたので多分こう思うのですが、一の谷町は海岸よりも土地が少し高くなっていてちょうどテーブルのような感じですかね。これは太古の昔海底にあった土地がだんだん隆起してきて 海底の平らな土地がそのまま地表に現れたという感じです。これを地理用語で海岸段丘(かいがんだんきゅう)といいます。その壇なる所というのはこの一の谷町のことではなかったか…などと勝手に想像したりしました。そして“それより下を見くだせば”…と続きます。そこはここのことではなかったか…?


 一の谷町のはずれは土地が急に20メートル?ぐらい落ち込んでいるのです。海岸段丘(と思う)ですから。義経軍はいったん土地の平らな一の谷町にひかえて、下の様子をうかがってから一気に平氏の陣地めがけて20メートルほどを下ったのではないかと生意気にも勝手にそう思いました。物語の言う“壇なる所”というのが一の谷町というのは可能性は低いと思いますが…。
そして須磨浦公園にある『戦の浜』の史跡です。


 須磨浦公園のすぐ横は国道2号線が通っています。道路のすぐ左側は瀬戸内海です。歩道をまっすぐ歩いて行くと須磨浦公園駅に出ます。

 


須磨浦公園内です。ほんとうに826年前の2月7日、ここは戦場だったのでしょうか。それが事実ならその時ここは騒然として大混乱だったのでしょう。そこらじゅうに倒れている兵士がいたでしょう。どんなふうだったのでしょうか。自分なりにいろいろ想像しながら歩いて行きました。





西の方に歩いて行くと須磨浦公園駅に着きました。                     
                    



駅の横のコイン駐車場のはずれにひっそりとたたずむ『敦盛塚』(あつもりづか)がありました。一の谷の戦いで亡くなった平家の若武者の供養塔です。源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)という武士が息子と同じ年頃なので一度は助けようとしたが、背後に味方の源氏の武士達が迫って来ていたので泣く泣く首を取ってしまったという悲話があります。               
                                
そしてそのすぐ横にそば屋さんがありました。『敦盛そば』と言います。5日ほど前にもこの部分の記事は載せましたがまた改めて。注文した“たまごとじそば”腹が減っているせいもあっておいしかったです。またいつか食べに来たいと思っています。