憲法記念日にて
憲法は法律の最高峰で、「最高法規」とも呼ばれます。
いかなる法律もこの憲法に従って作成されなければなりません。
その日本の最高法規、日本国憲法は1945年(昭和20)に日本が戦争に負けたことにより、
GHQ(連合国最高司令官総司令部)による民主化政策の柱として作成されました。
ですから欧米思想の影響もあり前文が不自然なところもあるようです。
日本国憲法の三大原則は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重、この三つです。
これは大日本帝国憲法への反省に基づいています。
これにより天皇は国家の象徴とされました。
そして、過去明治中期から昭和前期の日本国家の基本となった憲法が大日本帝国憲法で、
この憲法によれば、天皇は国の元首として統治権を総攬し、法律の裁可、議会の招集、
衆議院の解散、陸海軍の統帥・編制、宣戦・講和、条約の締結、文武官の任免、
緊急勅命の発布など、広範な大権を有し、憲法の条規により統治権を行使することとされました。
時代は1300年ほどさかのぼり、律令国家の時代。
律令には天皇の意志あるいは行為を拘束する条項は存在しません。
それどころか律令は、「勅裁」「勅断」によって天皇が律令の規定を破る権利を有することを保証しています。
そもそも律令は中国で発達した法体系ですが、中国において、皇帝は律令に拘束されず、
律令を改廃するのも可であるというのが中国律令法の大原則でした。
なぜならば、皇帝は律令のみならずあらゆる法の制定者であり、それゆえに法を超越した存在であっ
て、さらには法の妥当性に根拠を与える究極的権威であったからです。
日本の律令法もまた、こうした中国律令法の大原則をそのまま継受しているのです…。
戦前戦後の日本という国のあり方、古代律令国家の時代から受け継がれている日本の国家精神、
そして天皇制というものをもっと追究してみたいと本日憲法記念日にて思いました。
これは少しまえから僕の心の中であたためていたことで、日本史の根幹ではないんでしょうか…。
そしてこのことを、以前紹介しました鳥取砂丘の、“一里松”と、“飛鳥浄御原宮跡(推定地)”に
問うてみたいと、そう思います。
(鳥取砂丘、一里松…この木は近代日本を見つめて来た木なのです)
(飛鳥浄御原宮跡推定地…この頃より日本は律令国家へと邁進して行きます)
律令は、形式的には明治初期まで国家体制を規定する法典であり続けました。
その維新の頃に出現したのが鳥取砂丘に立っている“一里松”なのです。
丹後、蛭子山古墳
今日は丹後三大古墳のひとつ、蛭子山(えびすやま)古墳に上ってみました。
蛭子山古墳は与謝野町立古墳公園内にあり、隣接して作山古墳、竪穴式住居や高床式倉庫
などの古代復元住居、約300年前の町内の民家を移築した「いろりの館」、はにわ資料館などがあります。
蛭子山古墳は全長145メートルで、丹後地方三番目の規模を誇る前方後円墳です。
四世紀後半の築造で丹後地方最初の大首長墓です。
ここから蛭子山古墳の墳丘に上って行きます。
ここが墳丘の頂上です。
こう見ましても、たいへん美しい古墳でした。
手前に見えるのは「はにわ資料館」で、その向こうに見えるのは「作山古墳」です。
蛭子山古墳をはじめ、これらの古墳群は加悦(かや)谷全域を支配いていたと思われる首長層の人々のものであると考えられています。
これは作山2号墳の墳丘上です。
作山古墳は5基の中型古墳で構成されています。
埴輪はこのように並べられていたのでしょうか。
古代に誘われてしまいますね。
こちらは1号墳です。
1号墳の墳丘上から2号墳を眺めたところです。
今日は丹後三大古墳の最後のひとつ、蛭子山古墳に上ることが出来ました。
これで丹後三大古墳制覇です。満足です。
ちょっと、丹後王国の首長になれたような気持ちになりました。
丹後、銚子山古墳
前回に引き続き、はじめに古墳時代について説明します。
『 三世紀後半か四世紀はじめ頃、畿内をはじめ瀬戸内・北部九州を含む地域で、
前方後円墳と呼ばれる巨大な高塚墳墓が出現し、古墳時代を迎えます。
前方後円墳の分布は急速に広がり、五世紀に入ると南部九州から東北南部に及び、
六世紀後半ないしは七世紀はじめ頃まで各地で引き続いて造営されました。
また五世紀後半からは大形前方後円墳以外の中・小古墳が増大します。
なかでも円墳が密集して造営される、いわゆる群集墳が登場し、六世紀中・後葉をピークに
爆発的な勢いで増大し、全国各地の山間部や島嶼部にいたるまで浸透していきました。
しかしこの驚くべき勢いも七世紀に入る頃からにわかに衰え、
律令国家が確立する七世紀末頃までには、古墳の造営はほぼ完全に終わりを告げます。』
今日は丹後三大古墳のひとつ、網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳に登ってみました。
銚子山古墳は、全長198メートルで日本海側最大の前方後円墳なのです。
場所は、京都府京丹後市網野町網野で、網野南小学校の少し北方、
すぐ付近には国道178号線が通っています。
ここから登って行きます。
今まであまり古墳に触れることはなかったんですが、
自分の好きな土地、丹後を深く探っているうちに少し興味が持てるようになりました。
この、丹後では弥生時代後期から古墳時代前期後半にとりわけ有力な墳墓遺跡が展開しています。
また、畿内の巨大古墳の佐紀陵山古墳(奈良市)と同一の設計企画で築造されているという見方があ
り、中央政権と丹後勢力との政治的関係を強く示唆する存在でもあります。
墳丘には石碑が建っていました。
これは眼下に広がる網野の街を眺めたところです。
ずっと向こうには青い日本海も見えています。
きのうの午後から天気はくずれ始めたんですが、
今日のお昼ごろから回復してきて青空をのぞかせてくれました。
午前中の曇り空の名残でわたがしのような雲が浮かんでいます。
やっぱり晴れると心も晴れた気になります。
日本海側最大の前方後円墳の頂上に登れて満足です。
丹後、神明山古墳
はじめに古墳時代について説明します。
『 三世紀から四世紀末頃までの約100年間は、大和を中心として近畿・瀬戸内の先進諸地域に
出現した前方後円墳が、北部九州から東北南部まで日本列島の大半の地域に広がった時代です。
この過程は、全国各地で近隣の共同体を統合し強固な支配を確立した首長たちが、大和を中心とする
畿内の首長連合=ヤマト政権に服属し、日本の古代国家の母体となる連合体が形成される過程でありました。
各地の前期古墳のあり方は、これらの首長が最高の司祭としての呪術・宗教的な権威に支えられ、
共同体の諸機能を一身に体現した権力であったことを示しています。
在地首長は、前方後円墳の造営を中心とする共通の祭祀を媒介としてヤマト政権の首長と擬制的な
同族関係を結び、人的資源を含む貢納物の提供、軍事同盟の盟主としての指揮・命令に対する
服従という形でヤマト政権に服属し、その代償として在地の支配権を保障され、鏡や碧玉製品などを
分与されたものと思われます。』
ここは丹後半島の北西部、京都府京丹後市の竹野川の下流域です。
前方に見える集落は宮です。
左端には先に紹介しました竹野神社もあります。
そしてこの宮集落の背後にはこの地域で最大級の規模の、
全長約190メートルの神明山(しんめいやま)古墳があります。
築造時期は、4世紀末〜5世紀頭頃と考えられています。
画面では少しわかりにくいですが、小高い丘の上に建つ石碑が目で確かめられます。
少し視点を左のほうに移すと前方にみえる山すそには産土山(うぶすなやま)古墳があり、
さらにずっと左のほうの海に突き出た台地の上には大成古墳群があります。
このほかにもいくつもの古墳がこの地域にかたまっていて、
古墳の密集地域なのです。
今度は逆の右のほうに視点を向けてみました。
今現在は水田となっていますが、
神明山古墳が築造された当時はここに入り江があって古代の港があったのではないかと考えられています。
神明山古墳からの遺物としては、
高杯、器台、二重口縁壺、円筒埴輪などが出土しています。
興味深い物には表面にヘラ描きする埴輪が出土しており、
舟と舟をこぐ人物が描かれています。
また一説には、この古墳の主は竹野媛であるともいい、
このことは、この地に大和朝廷と関係が深くしかも海上権をも制覇していた大豪族が
存在していたことを物語るものであるという見解もあります。
これは宮集落の裏手、神明山古墳への登り口です。
以前からずっと登り口を探していてやっと見つけることができ、
喜び勇んで駆けあがりました。
そしてこれが墳丘頂上に登りつめた時の光景です。
北側の日本海を眺めると丹後の景勝のひとつ、“立岩”が前方真ん中に見えています。
左側に視点を移して、
前方の山向こうは、間人(はしうど)皇后伝説のある間人(たいざ)です。
またこの丹後には神明山古墳のほかに、
網野町の銚子山古墳(全長199メートル)、加悦町の蛭子山古墳(全長132メートル)の古墳があり、
日本海側でこれほどの巨大古墳があるのは丹後だけのようです。
こういうことからも一説にはこの地に古代の大豪族が存在し、丹後王国なるものがあったとも考えられています。
最後は古墳の頂上、石碑の建っているところから空を眺めてみました。
何でもこうして初めて触れた時、
初めて出会った時に清々しい感動を覚えるものです。
この感動を大切にしまっておきたいものです。
鳥取砂丘、一里松
国道9号線の旧道を砂丘方面へ入って行き、
信号を折れて「こどもの国」、柳キャンプ場方面へ道を進んで行き、
小高い峠付近にさしかかると右手に枝をいっぱい広げて立つ二本の松の木が見えて来ます。
案内板の内容を説明をします。
“この松は、旧街道の一里松として江戸時代に植栽されたもので、由緒ある名木として名高い。
この地は旅人達が高台で休憩したことから柳茶屋と言われて親しまれ、松の木陰から
鳥取砂丘と日本海の遠景が眺められる。
また日本海から侵入する外国船監視所の砲台が昭和三十年代まで残され、交通・防衛の要所となって
いた。この松の近くには有島武郎が砂丘を訪れた時の歌を刻んだ歌碑が建てられ、
こどもの国、柳茶屋キャンプ場を近くに配するなど、優美な景観とともに多くの市民の憩いの場として
親しまれている…”
これがほんの近くにある有島武郎の歌碑です。
“浜坂の遠き砂丘の中にして
さびしき我を見出でけるかも”
の、歌が書かれています。
この松、こう見ると日本海からの強い季節風にあおられて必死に踏ん張ってるようにも、
また、枝で地面を撫でているようにも見えます。
よくここまで枝を広く伸ばしているものだと感心します。
こんなに地面につくまで長い枝を伸ばしているのです。
木にも心があるんでしょうか…。
この松の木を見てそう思いました。
この松の樹齢はおよそ150年。
今から150年前というと1862年。
ちょうど明治維新の頃ですね。
この松がこの世に出現した頃、どんな世の中だったのだろうと思い、
高校時代の日本史の教科書を開けてみました。
そこには、
“ 開国、 ペリー、 日米和親条約、 ハリス、 日米修好通商条約、
井伊直弼、 橋本左内、 吉田松陰、 安政の大獄、 尊王攘夷運動… ”
などの語句が並んでいました。
生まれて間もないころの記憶なんてたいていの人はまず残っていないでしょう。
しかしたまに断片的に残っている人がいるようです。
僕自身は3歳ぐらいまでの記憶なら、印象的な場面が所々残っています。
この松の木は自分が生まれたころのことを憶えているのでしょうか。
この松の生まれたころの時代が気になりました。
この一里松は、明治維新前夜にこの世に出現し、
日本の近代化とともに世を眺めて来た…
そういう木なのです。
自分の生い立ちと、この木の生い立ちとも比較してみました。
最後に、この一里松を見てどんな言葉が妥当なのか自分でつけてみました。
一期一会に…。
浦島神社
この物語を初めて耳にしたのはいつだったのでしょうか、
幼稚園の頃だったのかもしれません。
幼稚園の担任の先生が紙芝居などで教えてくれてたような気がします。
浦島太郎の物語のあらすじは、
“ 漁師の浦島太郎は、子供が亀をいじめているところに遭遇します。
太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行きます。
竜宮城では乙姫が太郎を歓待します。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、
乙姫は「決して開けてはならない」 としつつ玉手箱を渡します。
太郎が亀に連れられて浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいません。
開けてはならないという玉手箱を開けると太郎は老人に変化してしまいます。
浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日でしたが、地上ではずいぶん長い年月が経っていました。”
丹後半島、
京都府与謝郡伊根町本庄にある浦島神社(宇良神社)は、浦島太郎を祭神としています。
祭神は浦島太郎の他に、曽布谷次郎・伊満太三郎・嶋子・亀姫となっています。
伊根町は日本最古の浦島伝説の地で、神社には玉手箱などの数多くのゆかりの品が残っています。
また、浦島太郎を祀る神社は丹後半島に限ってみても浦島神社のほかに、
網野神社・嶋児神社・西浦福島神社・六神社などがあげられます。
そのなかでもこの浦島神社は代表格といっていいようです。
浦島太郎伝説は日本書紀や万葉集にも記述がありますが、
『丹後国風土記』の逸文が一番くわしいようです。
いつになっても夢見心地な自分は現代に生きる“浦島太郎”なのかな…
と、少し思ったりします。