平家の居住区、京都六波羅

京都六波羅、ここは平安時代末期平家の一族郎党が甍を並べあっていた一大居住区。六波羅と言えば平家の代名詞のようなものです。京都駅から東北方向に車で10分以内で行けましょうか。長門本平家物語』によればこのあたりに五千二百あまりの邸宅を築いていて、人口にしてみれば三万以上だったそうです。それは少し誇張かもしれませんがそれでもそうとうな数だったようです。その当時京都の中心は大内裏ではなく権力と経済力を握った平家の根拠地六波羅でした。ここで『平家物語』の“我身栄花”の項の一部を引用してみます。“日本秋津島(にっぽんあきつしま)は、わずかに六十六箇国、平家知行の国、三十余カ国、既に半国にこえたり。其外荘園田畠、いくらといふ数を知らず。綺羅(きら)充満して、堂上(たうしゃう)花の如し。軒騎群集(けんきくんじゅ)して、門前市をなす。” きらびやかな感じがしますね。平家の栄華は、平清盛平治の乱に勝利して一族が地位と権力をゆるぎないものにし、1180年に全国に平家打倒の『以仁王の令旨』が発布され源頼朝が挙兵するまでのわずか二十年たらずでした…。  今現在の六波羅は周囲が国道1号線や清水寺四条河原町と、にぎやかなところに囲まれているにもかかわらず、この六波羅の一角だけはひっそりと周囲から隔離されているように静かなのです。何かを物語っているようで不思議な感じがします。それでは六波羅へ足を運んでみましょう。  これは現在の六波羅のメインストリートとでも言いましょうか。六波羅を東西に走る柿町通です。                                            
この写真は前回の記事でも紹介しましたが…。 八百数十年まえの平安時代末期にタイムスリップしてみたい気分です。平家一門はここでどんな日々一日を送っていたのでしょう。                          
この道を少し行くと『池殿町(いけどのちょう)』になります。池殿町は平清盛の異母弟の平頼盛(たいらのよりもり)の邸宅の跡と推定せれているようです。なお、頼盛は平家内部では微妙な立場にあり、1183年の一門の都落ちにも従わず京都にとどまったそうです。また、頼盛の母は清盛の継母になり清盛の父平忠盛(たいらのただもり)の後妻の池禅尼(いけのぜんに)宗子である。なぜ池禅尼(いけのぜんに)と言われるかと言いますとこの頼盛の邸宅『池殿』に住んだことからそう呼ばれるようになったようです。余談になりますが、平治の乱平清盛が勝利し源義朝は没しましたが、その息子の源頼朝を本来なら処刑するつもりが池禅尼の息子の家盛(平清盛異母弟)によく似ていたことから池禅尼は清盛に助命を懇願し伊豆へ配流となります。これが清盛の最大の誤算となるわけです。その後頼朝は以仁王の令旨を受け取って挙兵し平氏は瓦解の道へと進むことになります。その池殿町はここです。                                        
この通りを進んで                                   

反対側から、まさにここですね、池殿は。                                             
次は『三盛町(みつもりちょう)』です。ここは頼盛の子息の三盛の邸宅跡だったようです。通りの向こう側は池殿町です。       
次はまた前回の記事でも紹介しました門脇町です。清盛の異母弟、平教盛の邸宅跡ですね。                       
反対側から。古風で風情ありますね。                                               
 
 こんな祠(ほこら)もありました。                                                   
ここは門脇町のメインストリートと言いましょうか、向こうは池殿町です。          
反対側から                                                          
 次は六波羅蜜寺です。日本史の教科書にも出て来た空也平清盛の木像などが安置されています。                  

次は清盛の邸宅『泉殿』のあった宮川町通です。                                          
風情がありますね。                                                      
『西御門町』と、それらしい名前ですね。小さくみえますか。                                   
六波羅のすぐとなりは国道1号線です。                                             
六波羅のすぐとなりはこのように国道1号線が通っていて車がビュンビュン走っています。                      
 この通りから右へ路地をほんの少し入れば不思議な静寂につつまれています。ほんとに不思議です。なぜこの六波羅の一角だけがこんなに静かなのかと。                                                         

いかがでしたでしょうか平家の京都六波羅、800年前の面影を感じることができましたでしょうか。                  1183年の平家の都落ちのあと六波羅の街は焼き払われ、その後鎌倉時代鎌倉幕府出先機関である六波羅探題がおかれたが鎌倉幕府の滅亡とともになくなり、一帯は田地となった。その後江戸時代に再び庶民の街に戻って現在に至るようです。