平家の落人村3 安徳の里 鳥取県姫路村

平家の落人部落というのは全国にわたっています。そしてその中に安徳天皇伝説地というのが何ヶ所かあるようです。安徳天皇高倉天皇の第一皇子で、母は平清盛の娘、建礼門院徳子です。誕生後一カ月で皇太子に立てられ、三歳で即位しました。一一八三年(寿永二)七月、源義仲の軍勢に京を追われ、以後、平家とともに西国を転々とし、一一八五年(文治元)三月二四日、祖母の平時子に抱かれて長門壇ノ浦に入水したとされています。時に八歳でした。そして安徳天皇伝説地のひとつが鳥取県八頭郡八頭町(やずちょう)の山間部にある姫路村(ひめじ)です。                                         伝承によりますと、壇ノ浦に敗れた平家は、平知盛の謀により藤原景清、同景康、越中次郎兵ヱ盛次、伊賀兵内左衛門尉家長、藤原忠光らは、安徳天皇二位の尼、その他官女たちを守り、賀露港(かろこう)に上陸してひとまず国府町岡益(おかます)に落ち着き、大坪・市場・福地と谷間を登って行き、姫路に着いて北方のひょうたん山を越えた平地に仮行在所(あんざいしょ)をつくられたということです。ひそかに都をつくられたので、私都(きさいち)の名があるが、なぜきさいちと読むのか明らかではないそうです。なお、伊賀兵内左衛門尉家長は以前紹介しました兵庫県御崎村にも伝承があります。また、越中次郎兵ヱ盛次は兵庫県豊岡市気比や鳥取県八頭郡若桜町三倉村にも伝承があります。                               それでは一一八五年当時一行が賀露の港に上陸してから姫路村へ奥へ奥へと落ちのびて行く行程をざっと追ってみます。まず、現在の鳥取市郊外にある日本海に面した千代川河口付近にある賀露港です。このあたりから上陸したのでしょうか。
                                       


そしてたまたま通りあわせた岡益(おかます)の光良院の住職宋源和尚が寺に迎え、仮御所を私都谷のひょうたん山の裏に設け、帝をそこに移して時運の到来するのを待ったそうです。これは国府町岡益にある長通寺というお寺です。光良院とはこの長通寺のことだったのではないでしょうか。




岡益で一息ついてからこの平原をずっと奥へ奥へと落ちのびて行きます。



奥へ奥へ。

                                     


奥へ奥へ。道が険しくなって来ました。

                       


着きました。安徳の里、姫路です。これは土産物店ですかね? 喫茶コーナーもあるんじゃないでしょうか


集落の入り口です。

                                


畑の向こうはキャンプ場です。

                              


この案内板から、村の中心を走る道路をほんの少し北側の山すそのほうに入ると、安徳天皇遷幸記念碑があります。






記念碑横にある上岡田神社です。

                          


記念碑のすぐ裏手、ここからほんの10メートルぐらい上がった竹やぶの中におびただしい数の五輪塔群があるのですが、マムシなどの危険動物が出たらまずいですのでこの日はひかえました。 
   


右大臣九条兼実の日記『玉葉』の文治元年(一一八五)四月四日のくだりには、壇ノ浦の合戦のとき、「越中次郎盛継、上総忠光、悪七兵ヱ景清は脱走す」とあるそうです。また、京都大通寺秘蔵の「醍醐雑事記」の四月十八日のくだりには、「経盛行く方しれず」とあり、さらに貝原益軒(篤信)の八幡宮本紀のくだりには、「安徳帝御入水にあらず」とあるそうです。 全国にまたがる平家伝承地。また、平家一門の同じ人物の伝承地が数か所もあります。これはどういうことなのでしょうか。安徳天皇はこの地へ逃れて来たのでしょうか。それはなんとも言えませんが平家の落人たちが落ちのびてきたことだけは確かのようです。                                                                                そして、村の南側に川が流れていました。私都川(きさいちがわ)です。川というのは長い年月をかけ、その時代時代によって少しずつ流路を変えて行きます。800数十年前のその当時、この川がどういう状態であったのか、今と同じようなところを流れていたのか、もう少し山すそのほうを流れていたのか、村はどんな状態だったのか、どんな家が建っていたのか、自分なりに想像してみました。人々は川で洗濯をしたり、川の水を飲んだり、魚を捕ったりして川とかかわってきたと思います。ほんとにこの川は800年間もずっとここを流れて来たんだうかと、妙なことを考えてしまいました。何か非常にこの川が気になりました。何かを物語っているようで…。                  
                      


平家の落人部落にはこのような五輪塔が所々にあります。



時々、過ぎ去った過去のことを掘り起こして何になるんだろう?って感覚に襲われます。過ぎたことはもう二度と再生されることはありません。まえにもこの言葉を使いましたが、『死人に口なし』と。死んだ人は何も言ってくれませんし、蘇ることもありません。その時のその時代のかたちは今はありません。時間の流れというのも人間が勝手に創ったものなのかもしれません。しかし確かに“その瞬間”というのはあったのです。もし、そこに自分が居合わせたらどう思ってたんだろう?どんなふうに世の中を見てたんだろう?どんなふうに時間の流れを感じてただろうって思えるから過去を想像するのがおもしろいんじゃないかなあって思うんです。そこに根差した人々の“思い”があったはずです。そう思えるのは人間だからです。それは100年前なのか200年前なのか800年前なのか、きのうのことなのか時間的隔たりの差はあります。でも同じ過去です。地球が生まれてからどのくらいの歳月が経つんでしょう。地球の歴史からすれば、人間が地球上に出現したのはごく最近のことです。だから僕は800年前のことだろうがきのうのことと考えて平家の足跡を追っています。たかが800年。