二方神社

これは兵庫県美方郡新温泉町浜坂にある二方神社(ふたかたじんじゃ)
です。
美方郡はかつて明治の中ごろまでは但馬国二方郡(ふたかたぐん)と呼ばれていました。
国名の由来を見ていくことにします。

二方郡は明治二十九(一八九六)年三月に、南接する七美郡(しつみぐん)と合併して美方郡と称するようになったのです。
古い二方郡はさらにさかのぼれば、二方国として独立した一国を形成していたと言われます。「旧事本紀」には、志賀高穴穂朝、すなわち人皇十三代成務天皇のころに、出雲国造の一族である美尼布命(みねふのみこと)が、この二方国の国造に任ぜられたと書かれています。
旧事本紀」そのものは平安朝に成立したもので、その記事の真実性には疑問がないわけでもないですが、同じく平安朝の清和天皇貞観五(八六三)年に時原宿禰諸長の著作と伝える「但馬秘鍵抄」にも、本郡「旧二方」は、上古小国を形成していたという記事があるから、二方国が、かつて但馬国から独立していたという伝承が当時一般的に信じられていたということだけは、少なくとも事実のようです。
この「但馬秘鍵抄」には、二方の語源について、大庭県・端山県の二つの県があったので、二県(ふたあがた)と称したのが二方になった…。とあるようですが、この説が成立する前提には、国より県がさきにあったという難問を解決しなければならず、事実はむしろ逆であるから、国県制が成立したあとの、牽強であるという感じが強いが、ここでは二方国がかつて但馬国から独立した小国であったということ、およびその国造が出雲国の造と同系統であったと伝えられ、出雲系文化との親近性がそこに語られていることの二点を指摘しておけばよいかと思われます。
さて二方国がいつのころに但馬国に合併されたかも確証はありません。日本書紀延喜式に「大化の改制に但馬国を置き、二方を降して郡と為す…」とあり、天武天皇のころであるとも伝承するが、古代天皇制の最盛期として、国家体制の整備された時期である天武天皇の時代であれば、この伝承にうなずける節も多いようです。ともかく二方国は但馬国に合併されて、但馬国二方郡として、記録にその名をあらわすようになってきます。「延喜式」にも「二方郡」の名が見え、「和名抄」はこれを訓して「布太加太」(ふたかた)と書いています。
そして新温泉町浜坂指杭字仲瀬に古くから土原(つちはら)様とも土原大明神とも呼ばれた小社がありました。
現在は荒廃その極に達していますが、この小社こそ「延喜式神名帳」に所載する二方郡内五座の筆頭、二方神社なのです。