賀茂斎院

京都、上賀茂・下鴨神社と呼ばれることになるカモ神社の成立について述べます。
『賀茂・鴨』、あるいは『加茂・可茂』などと書くカモの神は、もとは大和の西南部、葛城地方にあった神のようです。
風土記』によると、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が神武天皇につき従って天上から日向国高千穂峰に降り立ち、そこから東征に参加して一緒に大和国葛城に入り、さらに奈良盆地を北上し、奈良山を越えて京都の『岡田賀茂』へ、ついで木津川を下り、桂川・鴨川の合流点から鴨川のほうをさかのぼり、北端の『久我の国の北の山基』に落ち着いたといいます。これが現在の上賀茂神社です。


このカモ神社の祭りが、葵祭です。
五月十五日という青葉の映える季節に、京都御所上賀茂神社下鴨神社の間を結び、鴨川の堤を静かに行進する斎王を中心とする祭列は華やかなものです。
葵祭は、京都が都となるはるか以前から行われていました。葵の葉を飾り付けに使い、そのために葵祭という名称ができるのは後世のことですが、神社の伝えでは遠く欽明天皇の時代に始まったといいます。

八一〇年、カモ祭りの中心とも言うべき斎王に内親王が任命され、ついに朝廷・皇室の祭りになったのです。葵祭はこうして成立しました。

この、賀茂斎院の始まりの理由はわかりませんが、後世の史料は、嵯峨天皇平城上皇との争いに勝利すれば、平安京を守護する賀茂神社に斎王を奉ると祈願したことによるとしています。

平安時代、伊勢斎宮は唯一無二の存在ではなくなったのです。

ちなみに嵯峨天皇桓武天皇の皇子。名は賀美能(かみの)、平城天皇の同母弟である。
嵯峨天皇のもとでは、桓武朝と同様、貴族層を王権が主導する体制が維持された。
また、嵯峨天皇は、宮廷の儀礼を中国風に整備することに意を用いました。平城朝で減員された近衛などの衛府の員数を旧に復し、女官である采女を管理する采女司を復活した他、弘仁九年には朝廷での儀礼や常時の服装などを改めて唐風にすることとし、、また平安宮内の殿閣・諸門の号をすべて唐風に改めました。天皇は文芸を重んじ、文人を重用し、法制の整備にも努めました。こうして嵯峨天皇の治世下には、朝野を通じて多彩な文化的活動が行われ、、宮廷にははつらつとした生気がみなぎりました…。

賀茂斎院はこのような時代に始まりました。

うまくまとまりませんでしたが、次に参りたいと思います。