伊勢物語〜序章への旅

休みをもらい、奈良の春日の里へ行ってみました。
奈良公園には鹿がたくさんいて、人になついていてかわいいもの。
この辺の風景も、大学時代よく見ていた風景です。


伊勢物語は、平安時代の歌物語であり、作者と成立年はよくわかっていないようです。
しかし原型は九世紀頃にできていたとみられます。
木の向こうに若草山が少し見えていますが、大学入学直後、新入生全員で登ったのを憶えています。


また、伊勢物語は実話ではない。そしてこの物語に登場する男は“在原業平”をモデルとしています。



在原業平”、平安時代前期の歌人であり三十六歌仙の一人である。
平城天皇の皇子、阿保親王の子で、母は桓武天皇の皇女、伊都内親王
美男で、和歌を得意としたといいます。


伊勢物語の初段に出てくる舞台がこの奈良の春日の里。
元服した男が、以前から持つ家のある春日の里に鷹狩りに出かけました…。
(以前から持つ家というのはおそらく父祖の時代から伝えられた古い屋敷が春日の里にあったのであり、平常の住居は都、平城京のなかにあったと思われる。)


その里の家に若くて優美な姉妹がいて、こんな古びた里には不似会いな様子であったので男は気が動揺し、着ていた狩衣の裾を切って、それに歌を書きつけて贈ったのであった。
この優美な姉妹というのは春日大社に仕える斎女ではないかという説もあります。


“春日野の若むらさきのすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず…”



「若むらさき」はムラサキという植物で染めた紫色の布の薄い色を表すとともに、若々しくて美しい紫の色にふさわしい女性の比喩にも使われます。
平城京宮廷のムラサキ栽培地がこのあたりにもあったのかも知れません。


初段の続きは省略しますが、伊勢物語は“昔、男ありけり…”といった書き出しが特徴です。
実話ではないにしても、物語のなかで語られている場所へは行ってみたくなるもの。
またこの物語は、中国の唐代に成立した小説で、日本には奈良時代に伝来した『遊仙窟』の影響も少しあるかと思われます。


春日の里は、物語で語られている当時は平城京の郊外。ひっそりと寂れたところだったのでしょう。今ですらこれだけ木々に覆われているのですから、当時は現在のJR奈良駅あたりから東側は原生林だったのではないでしょうか。


奈良時代というと、今から一二三〇年ぐらい前。この辺りでそのようなちょっとしたドラマがあったのか…。その男の屋敷はどこにあったのかとかいろいろ考えながら歩きました。


伊勢物語が成立したと思われる九世紀から十世紀初頭にかけての世の中の情勢は、律令制が次第に崩れて行く時代でもありました。
中国の唐の衰亡に伴って東アジア情勢も変化し、日本における朝廷を中心とする政治機構も、大きな変化がもたらされました。
八世紀初頭の律令政治は、有力氏族の代表者による合議の政体を基本としていましたが、次第に解体し、貴族社会は土地や財産の私有を基本とする家を構成の単位とするようになったのです。


また、社会の変化に伴い、律令の規定の変改もいちじるしくなって行きました。格式の編纂です。
格は、律令の規定を修正したり補足するため制定される単行法で、式は、律・令・格の施行細則です。
嵯峨天皇の時の弘仁格式清和天皇の時の貞観格式醍醐天皇の時の延喜格式を、三代格式といいます。
そしてこれより、藤原北家による摂関政治の体制が形成されて行くのです。
伊勢物語は、このような時代に成立したのでした。
下のこのフレームもなつかしいものです。大学時代、毎年正月にクラブで必勝祈願にこの春日大社へ訪れたものです。当時がよみがえります。


そして伊勢物語の第六十九段目の話しに男と斎王の恋物語が出ています。
“むかし、男ありけり。その男、伊勢の国に狩の使に行きけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「常の使よりは、この人よくいたはれ」…” と、はじまります。
伊勢物語がなぜそのような名がつけられるようになったかというと、有力な説なのが、この伊勢の斎宮物語の段にあるようです。


この道をまっすぐ行けば東大寺です。いつ来てもここはすごい人でごった返しています。
奈良で一番の観光名所でしょう。


最後は東大寺南大門、下から。