一一七七


大極殿(だいごくでん)は、古代の朝廷の正殿。宮城(大内裏)の朝堂院の中央にあり、
殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われました。



ここは、藤原宮跡です。
藤原宮の構造の最も顕著な特徴は、朝堂院の正殿としての大極殿が成立したことであります。
内裏正殿がもっていた国家的な儀式空間としての機能が分離独立して、独自の空間を構成する
ようになったのです。



大極殿の名は万物の根源、天空の中心を意味する太極(たいきょく)に由来し、
帝王が世界を支配する中心に位置するのが大極殿です。
二三五年に三国(中国)の魏の明帝が洛陽南宮に建てたのが始まりといいます。



藤原宮大極殿跡です。



この大極殿
日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮説と藤原宮説があるようです。



日本書紀は、六八一年(天武十)二月、天武は皇后(後の持統天皇)とともに“大極殿”に出て
親王諸王諸臣を召して、律令を定め法式を改めんと宣言したと述べています。
この、“大極殿”という記述が注目されるわけです。
天武天皇の宮は飛鳥浄御原宮です。
飛鳥浄御原宮の所在地は、飛鳥板蓋宮(皇極・斉明天皇の宮)推定地の上層遺構を充てるのが近年の通説で、
その東南郭で発見された大規模な正殿(エビノコ大殿)が、史料にみえる飛鳥浄御原宮の「大極殿」である可能性が高いようです。



伝飛鳥板蓋宮跡です。















ところで、大極殿がどのように利用されていたか、
奈良時代のものを史料からみると、
まず第一が天皇の即位の場合です。改めていうまでもなく、天皇の代替わりに、
新たに天皇がその地位に就いたことを百官に示す儀式であり、天皇制国家という形態をとる
日本の古代国家にとって最も重要な意味をもつものです。



第二に元日朝賀の儀があげられます。
これは毎年正月元日に天皇が百官の賀を受ける儀式です。天候の不順とか皇族の病気、
あるいは天皇が喪に服している時といったように、何らかの事情で朝賀をとりやめたりする例がしばしばみられるものの、
史料を通観してみるとほぼ奈良時代には大極殿において朝賀を受けるのを通例としていたと思われます。



次に即位・元日朝賀以外に大極殿が使われた事例として、改元・授位・告朔といったことが考えられます。
改元天皇の代替わりや祥瑞の出現等々の理由によって行われたが、即位に伴う改元を除くと、
天皇大極殿に出御したことを史料に明記してあるのは、奈良時代では養老と天平の二度の改元に限られます。
また授位についてみてみると、奈良時代にはきわめて多くの例があるにもかかわらず、天皇出御を
示す語句はまれにしかあらわれないようです。
次に告朔とは毎月一日に天皇大極殿に出御して諸司の進奏した公文をみる、という儀式です。
その起源は天武朝以前にまで遡るもので、以後平安時代にいたるまで史料に散見します。
復元された平城宮跡大極殿、荘厳な感じがしますね。



その大極殿
歴代王朝の象徴的存在となっていましたが、
一一七七年(治承元)、「太郎焼亡」と称される京都の大火に遭います。



四月二十八日の亥の時、樋口富小路に起きた火事は折からの南東の風にあおられ、
京中をなめつくしました。
東は富小路、南は樋口、西は朱雀、北は二条までの一八〇町の広範囲に及ぶものであり、
炎上の間には辻風が何度も吹いて、大内では大極殿以下の所々、公卿の家は関白以下
一三人の家が焼失したようです。



また、九条兼実は、「火災盗賊、大衆兵乱、上下騒動、緇素奔走、誠に乱世の至りなり。
人力の及ぶところに非ず。天変しきりに呈すと雖も、法令あえて改めず。殃を致し禍を招く。
其れ然らざらんや」と記しています。



この火災以降、大極殿は再興されませんでした。
その間およそ五百年、大極殿の終焉です。



平安宮大極殿跡です。




そして、



“あくれば六月一日なり。いまだくらかりけるに、入道、検非違使の阿倍資成を召して、
「きっと院の御所へ参れ。信業をまねいて、申さんずるようはよな、『近習の人々、此一門をほろぼして、
天下を乱らんとするくはたてあり。一々に召しとって、尋ね沙汰仕るべし。それをば、君もしろしめさるまじう候』と、申せ」とこそ宣ひけれ。
資成いそぎ御所へはせ参り、大膳大夫信業よびいだいて、此由申すに色をうしなふ。
御前へ参って此由奏聞しければ、法皇、「あは、これらが内々はかりし事のもれにけるよ」とおぼしめすにあさまし。”
☆現代語訳
《夜が明けると六月一日である。まだ暗かったのに、入道(平清盛)は検非違使阿倍資成(あべのすけな
り)を呼んで「至急、院の御所へ参れ。そして信業を呼びだして、申すのにはだな、『側近の人々が
この平家一門を滅ぼして、天下を乱そうとする計画がある。
いちいち召し捕って、尋問・処罰をいたします。それを君(法皇)も干渉なさらないでください』と申せ」

と言われた。資成は急いで御所へ駆けて参り、大膳大夫信業を呼びだして、この事を申すと、顔色を変えた。
法皇の御前へ参ってこのことを申し上げたところ、法皇は、「ああこれらの者が内々計画した事が、
漏れてしまったのだな」と、お思いになって茫然とされた。》
平家物語より〜



この年、平家打倒の密議、鹿ケ谷の陰謀が起こります。



さらに、
謀議の首謀者のひとり、西光法師を西八条邸へ連れ出し、強く縛って中庭へ引きすえ、
“入道相国、大床にたって、「入道かたぶけうどするやつが、なれるすがたよ。しやつここへひき寄せよ」
とて、縁のきはにひき寄せさせ、物はきながら、しやっつらをむずむずとぞふまれける。”
☆現代語訳
《入道相国は大床に立って、「この入道を滅ぼそうとするやつの、なれ果てのみじめな姿だわい。
やつめをここへ引き寄せろ」といって、縁の際に引き寄せさせ、何かものを履いたままで、そいつの面を
むずむずとお踏みになった。》
と、こう語っています。迫力のある記述ですね。

全盛を誇った平家はこのころから徐々に雲行きがあやしくなって行くのでした。