京めぐり

歴史学って何なのか、
ずっと最近このことを考えています。
でも、答えが出ません。


平安時代ってどうとらえたらいいんでしょう。
四百年も続いた平安時代
自分にとっては巨人。
まずはこの詩から、
“新京楽 平安楽土 万年春 ハレ、新京、平安、万々歳 ”


先月、また貴重な連休を頂いたので、
久しぶりに憧れてた京都に赴いてみました。
今はずっと寒波が襲来して寒い日が続いていますが、
正月を過ぎて、何日かよく晴れていました。


最初に、
一一一七年十二月十三日に待賢門院璋子が鳥羽天皇との婚礼の儀に臨んだという
土御門内裏跡を目指しました。
それは清盛が生まれる一年前のこと。

ほんの近くには護王神社があって、
なかには突然、和気清麻呂像。


和気清麻呂といえば、
坂上田村麻呂とともに桓武天皇の右腕となった人物。
一八八六年に、清麻呂を護王善神として祀っていた神護寺から京都御所の西に
移されたのが護王神社だそうです。



清麻呂像の後ろには、
国家『君が代』のなかに出て来る“さざれ石”がありました。
いろいろ出向いてみるとこういういろんな発見があります。



なお土御門内裏跡の碑は、画面には映しませんでしたがこの護王神社のすぐとなりの
京都ガーデンパレスにありました。


この日はほんとにすっきり晴れ渡っていました。
冬晴れでした。


次に、京都市内北部の真ん中あたりにある北野天満宮に行きました。



祭神は学問の神様“菅原道真



社殿の裏のほうに行ってみました。
こんな感じで…。


ぐるっとまわって少し行くと、御土居の看板が。




御土居の看板のとなりには歌碑が。
この歌碑は菅原道真のことを歌ったものか…
くわしい内容は忘れてしまいました。



来た道後ろをふり返って。
この御土居の部分、
少し高くなっているのがわかるでしょう。



そして階段を登りきると、
大きな欅の木が。
看板にある通り、樹齢六百年のようです。


欅の木を少し離れてみて。

ちょうどここが御土居の頂上で、
画面には写っていませんが、左側は5メートル以上…
土地が傾斜して落ち込んでいます。


一回りして、
社殿にもどって来ました。


べつに、自分は受験生でもありませんが、
学問の神様に参拝しました。



小学校六年、
六年生で初めて社会科で歴史を学びました。
今もそうなんでしょうか…?
その小学校六年生の時の担任の先生が歴史の授業の時に、
“平家の栄華はわずか二十年と言われています…”
そう言っていたのを今でもはっきりと憶えています。


その時の教科書はもう捨ててしまって現物はないのですが、
おぼろげながら源平の時代のことがおおまかに1ページか、2ページぐらいの範囲で書かれてあったのを憶えています。
せっかく栄華を築いていたのに…って、
平家のことが自分のことのように思えたのです。
別に自分は平家の子孫でもなんでもありません。
でも、自分が好きなもの、自分が支持するものを
そのわけを答えろと言われても、
返答に苦しみます。
自分が好きな人や物事
もしかするとそれは自分と共通性があるのかもしれません、
少しそう思います。


正直、
平家を滅ぼした義経に対して、
その時子供ながらかなり強い嫌悪の念を持ったものです。


傲慢であろうが悪人であろうがいいじゃないですか。
好きなものは好きです。


《 “夜泣きすとただもりたてよ末の世にきよくさかふることもこそあれ…
 さてこそ清盛とはなのられけれ。”
                    平家物語祇園女御』より 》


次に、
待賢門院璋子が天安寺を復興して建立したという法金剛院に行ってみました。
これは、青女の滝。
待賢門院が造らせたもので、
現存する人工の滝では最古のもののようです。




そして庭園のなかの池です。
青女の滝は池の向こうの端の山すそです。



ここは、嵐山。



この風景、
数年前に初めて来た時には、
桜の散った四月の終わりで、うららかな季節でした。


初めてこの風景を見た時に、
たしかいつか夢で見たような、不思議な感覚に襲われたのです。
ほんとに夢の中にいるような不思議な、うっとりとした感覚でした。


正夢? まさか…。




これは、おなじみの渡月橋
この嵐山も祇園とともに、
京都のなかでとくに好きな場所です。



そして、
嵐山渡月橋からも、そう離れていない大覚寺に行ってみました。
光りがこだまして来るようで、回廊がきれいですね。




大沢池です。
嵯峨天皇離宮だったようです。




平家に関して、
その後中学になって、平家の歴史を描いたある本を読んでいました。
マンガの本だったのですが、わかりやすく所々に平家史跡の写真も付いていたと思います。
もうその時におおよその平家のストーリーが頭のなかに入っていたのです。
街の本屋で買って、いつも寝る前に読んでいたように思います。
それで最終に書かれてあった清盛の娘、建礼門院徳子の物語を読んで、
ひどく悲哀の念にとりつかれていたのを憶えています。
その時、建礼門院には同情しました。
もう一族はちりじりになってしまい、源氏の世になってしまっています。
平家を滅ぼしたあの義経や頼朝も、建礼門院より先に亡くなっています。
そんななかで、あの人里離れた大原寂光院でどんな思いで余生を過ごしたのだろうかと…。



そして、
これは京都ではおなじみの風景です。
前方は八坂の塔
数年前にこの辺をよく散策したものです。
塀の色と、石畳の道がほんとにいいですね。
ここは六波羅から近いですが、
平安時代末、清盛もこの辺を何度か訪れていたのでしょうか。




最後に、三十三間堂に行ってみました。
三十三間堂はよく知っているんですが、
この日初めて中に入ってみました。



中央の巨像(中尊)と、一〇〇〇体の千手千眼観世音菩薩を生で見て、
圧倒されました。
御存知のように三十三間堂は、正式には蓮華王院といいます。
蓮華王とは千手観音の別称です。



僕が平家の歴史に本格的に触れ、
各地の平家史跡を巡り歩いていたのは今から五年前の二〇〇七年でした。
もうその時のわくわく躍り上がるような気持ちにはなれません。
ある友人が、“映画は最初に観た感動を大切にしまっておいたほうがいい…”と、
いつか言っていました。
だから、“この時代”のことは封印してしばらく触れずに置いておこうと思ってました。
何度もその扉を開けて見てしまうと、最初のあざやかな感動は廃れ淀んでしまいますから。
しかし、
忘れてしまったことや、まだ知らないことがあって、
少し、振り返ってみているのです。
平清盛』をやってますよね…。


年月って、どうとらえればいいんでしょうね。
不思議なもので、十年経とうが百年経とうが千年経とうが、地球の分子は変わってないはずなのです。
生物の遺伝子は、少し進化しているかもしれませんが…。
でも、
その時代、
その時に吹いていた風はもう二度と吹きませんから。
ずっと、時代は塗り変えられて行くのです。
“歴史”って、そういう意味もあるのでしょうか…。


“新京楽 平安楽土 万年春 ハレ 新京 平安 万々歳”

新都に平安京の佳号をつけたのは、凶事の発生を避けようとする気持ちをあらわしたもののようです。
延暦十四年の正月に宮中で行われた踏歌(あらればしり)のくりかえしことばに盛り込まれています。