安徳天皇陵墓参考地 鳥取県国府町 岡益石堂

前回紹介しました『安徳の里 姫路村』に付け加えられるのですが、その行程の途中に岡益(おかます)村に長通寺というお寺が出てまいりましたが、その長通寺のすぐとなりの小高い丘陵のうえにむかしから安徳天皇の御陵といわれている石堂があります。





壇ノ浦の合戦(一一八五)の後、安徳天皇は平家の一族である平知盛・平盛嗣(盛次または盛継、盛続ともいわれている)、伊賀兵内左ヱ門尉家長、二位の尼や官女たちにまもられて、因幡の国、賀露(鳥取市)に上陸せられた。たまたま通りあわせた、岡益の光良院の住職宋源和尚が寺に迎え、仮御所を私都谷(きさいちだに)のひょうたん山の裏に設け、帝をそこに移して時運の到来するのを待った。しかし、文治二年(一一八六)八月十三日、帝は二位の尼(大納言平時忠の姉)に伴われて、荒舟(国府町)の山奥においでになられたが、にわかに発病の後に崩御された。ときに九才、宋源和尚は遺骸を光良院に迎え、本寺般若院の長通禅師を招いて弔祭の導師とし、寺内に石堂をつくって葬り奉ったとある…(長通寺縁記)                                                    
長通寺の住職牛尾得明氏は、御陵崇護の誠をつくすよう、明治十九年ごろから、地方の有志とはかり、宮内省をはじめ各方面に請願した結果、明治二十八年に至り、御陵墓参考地として宮内省の所管となったそうです。                            
石堂は、全国にもその例を見ない珍しい石造建造物で、凝灰岩の切石を使用し、六・七メートル四方、高さ一メートルの造り出しのある基壇の上に、厚い壁石を建てて一部屋をつくり、正面に入り口があります。 部屋の中央に強い銅張りの円柱を立て、円柱の上に四角の大きなます形の石が二個乗せてありますが、その下の石の裏側の曲面いっぱいに、双胴蓮弁と忍冬文(にんどうもん)の珍しい浮き彫りがあります。円柱のふくらみは、大和の法隆寺金堂の柱より、様式的にも古いといわれています。                                                                                     双胴蓮弁文様は、中国では早く六朝(後漢の滅亡以後隋の統一まで、二二五〜五八八)初期の、仏獣鏡にあらわれており、いっぽうギリシャに発したといわれています。大陸文化の忍冬文様は、大和の寺院その他にも全くその例がなく、中国では大同雲岡の石窟寺や、北朝系の高句麗美術に同様のものがうかがわれるそうです。                                           
もっとも、忍冬文様はわが国では、飛鳥時代(五九三〜六四五)に盛んであったが、このように石へ刻まれたものは、きわめてまれであるようです。つくられた時代は、白鳳時代(六四五〜七一○)だとみられていますが、ます形の上にある、笠石をもつ破風(はふ)形の無縫塔の部分は、まったく別なものといわれており、日本の文化史と大陸文化の関係について、新しい問題をはらむスケールの大きい、謎の建造物です。