秀吉の鳥取城兵糧攻めと久松山

9月とはいえ灼熱地獄のような暑さのなか、鳥取天守跡のある久松山(きゅうしょうざん)に登ってみました。今日から少し、戦国時代を調査しようと思います。ここは天正九年(一五八一)、天下統一をねらう織田信長の中国方面攻略担当の羽柴(豊臣)秀吉による『鳥取城の渇殺し(かつえごろし)』と呼ばれる攻城戦が行われたところです。鳥取城は中国地方に巨大化しつつあった毛利氏の因幡地方の要の城でした。標高二百六十三メートルの久松山の山頂にあって、鉈で丸太の四方をそぎ落としたようにそそり立つ天空の城でありました。食糧さえ尽きなければ何年でも持ちこたえることができたであろうと言われる難攻不落の鳥取城を武力で戦うのは無理と判断した秀吉は城を包囲して武器や食糧の搬入を断ち切ってしまう残酷なやりくちの兵糧攻めを行ったのでした。秀吉は因幡国の食糧を買い占めたり、鳥取城下の村をわざと焼き払い、領民を城内に避難させ、食糧の減少に拍車をかけさせるよう巧みな事前工作をしました。そのため城内は四千人がひしめきあっていたといわれます。当時、鳥取城の城主は山名豊国でしたが秀吉は自分に従属するなら因幡国は与え、逆らえば城を攻め落とすと脅かして次々と人質を殺して行き、最後に豊国の娘を磔にしました。そしてあっさり秀吉方に降りてしまったのです。家臣たちの人質は殺され、豊国の娘だけがたすけられ、家臣たちの反感を買い城を追放されてしまいます。かわりに石見国の福光城主吉川経安(きっかわつねやす)の嫡男経家(つねいえ)が鳥取城へ派遣されました。 まずはその鳥取城のある久松山を遠方から眺めてみたいと思います。手前を流れる川は千代川(せんだいがわ)です。 久松山は画面中央に、独立してそそり立っているのがわかります。 鳥取市街はこの久松山の麓から千代川のほとりまで広がっています。               



少し近づいて来て西の方角からです。                        




鳥取市中央を走る若桜街道から。まっすぐ行って突き当たれば鳥取県庁があります。       



市内から見ていましても、すごい迫力なんです。そそり立つその威容はいつも胸に迫ります。



山頂に石垣らしきものが見えますね。自然の曲線ではなく、明らかに人為的なものとわかりますね。




久松山真下の久松公園からです。付近には県立博物館や明治40年に当時の皇太子の宿泊所として建てられた洋風建築の仁風閣(じんぷうかく)もあります。
                                 


麓に神社があり、この鳥居をくぐって登って行きます。                   
 


こんな急斜面を登って行くのです。登るというか這い上がるという感じです。そのくらい急斜面なのです。“鉈で丸太の周囲をそぎ落としたような”という表現のままです。最初、神社の鳥居をくぐってしばらく行ったところに “熊に注意” の看板があったので、引き返そうかと思いましたが運を天に任し、恐る恐る登って行きました。道はジグザグなのですが、おおまかには山頂までほとんど直線的なので、30分ほどで登ってしまいます。                             


ここは五合目にある神社ですが、ほんのわずかの平らな土地です。最初も申しましたが、記録では城内に四千人がひしめいていたと言われています。ほんとに四千人ぐらいいたのかどうかは430年ほど昔のことですからわかりませんが、こんな急斜面の山中でどのようにして城が包囲された3ヶ月間ほどを暮らしたのだろうかと疑問に思います。多分ここの斜面が特に急なのでしょうけど、山全体を見ましてもやはりそそり立つ急峻な山容で、まず人が楽に暮らせるような平らな土地はありません。      

 


山頂に近付いた時、こんなものを見つけました。石垣の石を木が呑み込んでいます。この木の周囲には崩れかけた石垣がありました。時間の経過を感じます。                                

 


山頂に登り切ってまず右側に歩いて行き、二の丸跡の平地がありました。

          


いよいよ本丸跡の石垣を登り…。 

                          


ここが山頂の本丸跡です。

                               


そして…このパノラマです。この日はお昼過ぎまでうす曇りで今一つ見通しが悪いですが、快晴の日にご覧になればそれは素晴らしいものです。天候が今一つなので、日を変えようかと思いましたが気がはやって登ってしまいました。ほんとうに天空の城です。真下に見える小高いビル群は鳥取県庁です。

                              


西の方角です。湖山池が見えます。

                            


ここは天守櫓跡からの眺めです。ここからの眺めも素晴らしいものです。まさに天空。空を飛んでいるような気持ちになります。


天守櫓跡から日本海方面の眺めです。360度、視界を遮るものはありません。 一五八一年、秀吉は七月から十月までのおよそ三ヶ月間およそ四万の大軍(三万という説もある)でこの山の周囲をぐるっと取り囲んだのでした。それは柵を回らし番兵を立て、夜は篝火をたき、川の中にまで網を張って完全に人の出入りを遮断し蟻の這い出る隙間もないような状態だったようです。前方の連なる山の先端に独立した小高い山が見えますが、丸山と言いまして、最初はその丸山から密かに前方に見える山伝いにこの山頂本丸へ毛利氏からの物資や食糧が運ばれていたようですが途中で断ち切られ、後半飢餓が著しくなって行きました。やがて城内にこもった人々は木の芽、草の根、鼠からとかげ、牛馬、あげくのはてには人の肉まで食べたという惨状だったようです。『信長公記』は語ります。
                      


本丸跡の端っこにある天守櫓跡の石垣です。







山頂から下りるところです。久松山への登頂は今回が二回目です。“熊に注意” の看板があったとはいえ、今回も5人ぐらいの登山者とすれ違いました。鳥取市民の方でしょうか、散歩がてらに犬と一緒に登山されていた婦人の方もいらっしゃいました。前回は今年の真冬、一月でした。寒かったですが真冬とはいえ積雪が少なく、その時も5人ぐらいの登山者とすれ違いました。どうやら手軽なハイキングコースになっているようです。

                                


下山する途中斜面を上から見下ろしたところですが、こんなところは大軍で襲来しても攻められないなあと思いました。


そして下山。

                                    


久松山麓の石垣から山頂を見上げたところです。                     



久松山の裏側、鳥取市街からすると反対側の久松山山麓の円護寺(えんごじ)という土地に吉川経家墓所があります。鳥取城の兵糧攻めも極限に達し城兵の飢餓も著しくなり、ついに経家は秀吉に降伏したのでした。そして自分の命と引き替えに城兵の解放を求めましたが、秀吉も経家のような義士を殺すのは、秀吉の名誉をきずつけるとして容易に承諾しませんでした。しかし、短期の加番とはいえ鳥取城将となった以上は全責任は自分にあるとゆずらず、秀吉もついに了承し、十月二十五日経家は切腹して果てました。こうして生き残った城兵や村人は助けられたのでした。戦国の世に散った因幡の勇士吉川経家に、義理、人情、男らしさ、責任感、使命感、そのようなものを強く感じさせられました。僕はとても胸を打たれる思いでこの墓所に合掌しました。



僕は兵庫県民ですが、鳥取へは30分ほどで行けてしまいます。ほとんど郷土のようなものです。今は亡き過去の人ですが吉川経家この人を因幡の英雄として讃えたいと僕は思います。久松公園前の吉川経家公の銅像より。   


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