鳥取城の出城、丸山城

今回は前回の続編のようになります。一五八一年(天正九)鳥取城の攻城戦の時、出城に丸山城がありました。鳥取城のある久松山は日本海方面に向けて小高い山が連なっていて、その各所に出城を築いて連携しあい秀吉の軍勢に備えたのでした。丸山城はその連なった山の先端に独立してそそり立つ山の上に築かれた出城でした。前回にもこの画面を使いましたが久松山の頂上から見るとこのようになります。先端の丸い山が丸山城です。少し手前に白い電波塔のようなものが立っているところがもう一つの要塞、雁金城(かりがねじょう)です。丸山城から山伝いに雁金城を経て鳥取城へ毛利勢からの兵糧が輸送されていたのでした。                               
かわって反対側日本海方向から撮った丸山城です。                  
これは丸山城のふもとにある公園ですが、当時鳥取平野を流れる千代川は大きく蛇行しちょうどこの辺りを流れていたそうです。手前は川のようですがこれは川ではありません。湿地帯のようになっています。右の方に行くと途切れてしまいます。最初の写真を見てもわかりますが、今現在の千代川は堤防が築かれ、平野を直線的に流れて日本海に注いでいます。これはかつて千代川の流域であった名残なのでしょう。十分うかがえます。大学時代地理学科にいた僕はこういう光景を見るとちょっとぞくぞくします。攻城戦の行われていた当時、毛利勢の武器弾薬・食糧の補給には丸山城は重要な城でした。毛利勢の因幡進出の海上拠点は伯耆の泊の河口城で、毛利方の水軍はここを出発し、賀露沖で秀吉方の水軍と交戦してこれを突破し、さらに千代川をさかのぼって丸山城に輸送していたわけです。それを丸山城では雁金城を経て鳥取城へ運び入れていたのでした。                           
青い橋は国道9号線です。丸山城のすぐ横を通っています。              
丸山城から兵糧が鳥取城へ輸送されていたそうですが、丸山城は独立して立っています。尾根の先端の前方に見えるあたりから山伝いに運ばれていたのではないでしょうか? 自分なりにそう思うのですが、調査不足もあります。     
近づくとこのあたりです。このあたりのどこかから山を伝って鳥取城へ兵糧が運ばれていたのではないでしょうか。
前方の少し高くなった山が久松山です。尾根が久松山へ続いて行きます。         
左(日本海のほう)のほうからずっと尾根が続いて行きます。              
右のほうが久松山、左に白い電波塔のようなものがかすかに見える山の頂が雁金城です。    
丸山城のふもとには奈佐日本助(なさやまとのすけ)の慰霊碑があります。奈佐日本助は山県左京進とともに五百名ほどでこの城を守りました。しかし鳥取城落城とともに一五八一年(天正九)十月二十五日自刃して果てました。また、奈佐日本助は但馬水軍の将で山中幸盛らの尼子氏再興運動に助力した人でもあります。