因幡のお城、鹿野城

今日は少しあいにくの天候でしたが、鳥取県鹿野町にある鹿野城(しかのじょう)に行ってみました。鹿野城鹿野町の南、妙見山にあり、別名王舎城(おうしゃじょう) とも言います。 創建の年代は詳らかではありませんが、志加奴氏(しかぬし)の代々の居城であったようです。戦国期には、鳥取城攻城戦に参加した亀井玆矩(かめいこれのり)が戦功により羽柴秀吉から一万三千八百石を与えられ、鹿野城主となっています。前回のブログでも紹介しました『鳥取城の兵糧攻め』の、その第一回目の天正八年の鳥取城攻めの時は、秀吉はまずこの鹿野城を攻めました。ここに山名豊国の娘以下家臣達の人質が預けられていました。秀吉は人質を手中に収め豊国を脅して降伏させます。その後豊国は鳥取城を追放されますが…。 亀井玆矩の代には鹿野周辺の河川の改修と共に城の大改築が行われたようです。亀井氏は新田開発を始め、海外貿易等、時代を先取りし、事業を開拓するパイオニアとも言えましたが、二代目政矩(まさのり)は、一六一七(元和三)年に津和野に移るように幕府から命じられて鹿野の地を去ることになります。以下省略しまして、城は元和の「一国一城の制」によって破壊されたので、石垣・内堀・外堀・薬研掘のほか、いくらかの平地を残すのみとなっています。          
これはちょうど天守台を上ったところです。                     
このように天守台跡には建物の基底部に根石が残っています。この十四メートル四方のせまい空間に本瓦葺、入母屋造の三層の建物がそびえていたと推定されています。                            
天守台跡から鹿野町を眺めたところです。今日は曇りなので見通しももうひとつといった感じです。
亀井玆矩はインドの仏跡にちなんで、居城を王舎城、城下を鹿野苑(ろくやおん)、山を鷲峰山(じゅぶせん)と呼ばせました。                                             これは鹿野城の図です。                                                                      麓にはお堀があって、ハクチョウ?が飼われていて近づいて来ました。                                                    餌をもらえると思って来たのでしょう。至近距離まで来ました。ぜんぜん怖がらずに。ハクチョウの足元には鯉がいっぱい泳いでいます。         
しかし何も持ってなかったのでひじょうにすまなく思いました。            
餌が欲しそうにじっとこっちを見ていました。ほんのひと時子供心にもどったような気分になりました。
そして鹿野城のお堀をあとにし街なかの方へ歩いて行きました。お堀を出てすぐのところに街の案内板がありました。小さな田舎町ですがやはり城下町らしく道が縦横に整然と敷かれていました。                  
少し行くと。                                   
鹿野町に幸盛寺があるのは以前から知ってましたが、参拝するのは今日が初めてです。これは幸盛寺の山門まえにある案内板です。しかし墓まであるとは知りませんでした。  それに鹿野町と鹿之助(幸盛)とどう関係があるのでしょう。鹿野城は志加奴氏(しかぬし)の居城でした。                                        

山中幸盛の墓です。お寺の方に許可を頂いて写真を撮らせてもらいました。真ん中にちょこんとあたまが見えているのがそれみたいです。 
鹿野町の街並みです。とっても静かで落ち着いてました。