因幡のお城、防己城

鳥取市郊外に湖山池があります。その湖山池の湖畔の西に岬のように突き出た小高い丘陵の上に防己城(つづらおじょう)という小さなお城があります。防己城は鳥取城の支城で、城郭は、本丸・二の丸・三の丸と、それに取り囲まれた町屋によって構成されていました。本丸は標高二〇メートル、湖山池の水面からの比高一五メートルの山頂にあります。天正六年頃、吉岡将監定勝(よしおかしょうげんさだかつ)の築城といわれています。ここに鳥取城攻めにまつわるエピソードがあります。天正九年秀吉の鳥取城攻めの時、将監父子ならびに舎弟右近らは毛利氏の一翼として当城に籠城し、秀吉勢に対しました。知勇をもって知られる将監は敏速に兵を動かして鳥取城を包囲する秀吉勢の背後をしばしば急襲しました。一夜多賀文蔵の陣を攻撃し、その旗指物を奪いました。無念やるかたない文蔵は防己城攻略を決意し、秀吉に願い出ました。秀吉は文蔵の願いを許し、その馬印を授けて先陣とし、みずからも三津ヶ崎に陣を進めて督戦しました。 天正九年七月、多賀文蔵は船手を指揮し、秀吉の馬印を押したてて城の塀下に漕ぎ付け、攻め登ろうとした時、沈黙を守り続けていた城内からいっせいに鉄砲が火を吹き、矢・大木・大石が降りそそぎ、鬨の声と共に城兵が一団となって槍衾をつくって打って出て来た。寄せては水際でのこの奇襲に崩れて大混乱に陥り、文蔵は乱戦の中で討死しました。この時、将監の弟右近は秀吉の千生瓢箪の馬印を奪い取り、多くの首と共に塀に懸け並べ、「天下無双の弓取り羽柴秀吉公を討ち取りたり。その証拠にはこの場印を見よ」 と大声で呼ばわったので、吉岡方の士気は大いに挙がった。激怒した秀吉は陸上から亀井玆矩に攻撃させたが、いたずらに犠牲の数を増すばかりでした。そこで秀吉は軍を引き、玆矩に命じて包囲させ、糧道を絶ったので、城中はまもなく兵糧が尽き、、ついに城兵は四散したということです。下の写真は本丸跡です。

これは防己城のすぐ下にある入江の先端から湖山池を眺めたところです。右の方から突き出した岬の先端の後方にあたまひとつ高くなっている久松山が遠くに小さく見えます。敵の襲来があれば、すぐに舟をこぎ出してこの湖山池に避難したと思います。            
防己城を真横(北西の方から)から眺めたところです。赤くなっているのは水草で、湖山池の水面です。                 
湖畔をもう少し行って、防己城の斜め左前方の方からの眺めです。