鳥取城

これは以前にも“豊臣秀吉鳥取城攻め”で紹介した久松山です。
戦国期の鳥取城の歴史を知っている人なら、この久松山を見るととても胸に迫ります。




標高二六三メートルの久松山にはじめて城が築かれたのは天文十四年(一五四五)二月中旬のころといわれています。


当時、因幡の本城は湖山池のほとりにある天神山城だったのですが、
あまりにも標高が低く、敵の襲来を防ぐことは困難であり、家老たちが集まって協議した結果、
久松山に城を築くことになりました。
すなわち、鳥取城は但馬の山名氏に対して、国境防衛の拠点の出城として築城されることとなったのです。




久松山に城が築かれてから、取り壊されるまでの三三四年間の移り変わりを、城の歴史と、
城そのものの変遷について眺めると、慶長五年(一六〇〇)を境に、
山上の丸を中心とする時代と山下の丸を中心とする時代の前後二期に大別することができます。




慶長五年という年は関ヶ原の合戦の年であり、徳川家康の天下統一の態勢の確立を意味する年であるとともに、
日本城郭史においても、中世と近世を区分する重要な年です。
そして、この鳥取においても、久松山のお城が、その性格を一変する大改築の行われた年でもあります。




前期、山上の丸の時代は天文十四年(一五四五)から慶長五年(一六〇〇)までの五五年間をいい、
「中世の城郭」としての「山城」の時代です。
天文十四年に布施の天神山城の出城の「出城」として築かれ、天正元年(一五七三)に
「本城」となったものですが、この期間は戦乱の時代であり、山中幸盛鳥取攻め、
羽柴秀吉の渇殺、亀井玆矩の城受け渡しなどがありました。



後期、山下の丸の時代は慶長五年(一六〇〇)より、明治一二年(一八七九)までの二七九年間をいい、
「近世の城郭」の時代です。
すなわち因幡伯耆両国の「行政の府」として政治の中心となった時代でした。