城崎温泉の歴史 4

城崎温泉街のあるこの地は、以前は“湯島”と呼ばれていました。
その湯島の近世は出石の傑僧・沢庵和尚(一五七三〜一六四五)の登場で始まります。
沢庵はたくあん漬けの発明者として知られているだけでなく、
寛永四年(一六二七)に起こった紫衣(しえ)事件で、
成立したばかりの江戸幕府と対立した反骨の僧でもありました。




この事件は、沢庵ら臨済宗大徳寺派などの高僧に対し、朝廷は紫の衣の着用を許したが、
幕府がこの勅許を無効とし、反対した沢庵らは東北に流され、
朝廷に対する幕府の優越をはっきりしらしめた…
という意味を持っていました。
事件の七年後、沢庵は幕府から許され、寛永十一年(一六三四)出石に帰りました。
この後東海地方など各地を遊行しつつも、沢庵は同十五年(一六三八)但馬の温湯に浴することも多く、
城崎温泉のファンだったのです。




沢庵は“まんだら湯”西の山のふもとにある極楽寺を宿としました。
同寺は、室町時代初期の応永年間(一三九四〜一四二八)、出石・宗鏡寺の創建者、金山明昶禅師が
開いたが、その後荒廃し沢庵が再興したものです。
温泉好きの沢庵だったから、別荘のようにして使っていた庵を臨済宗の寺として再興したのでしょう。
極楽寺は慶安五年(一六五二)、豊岡藩主杉原伯耆守の帰依を受け、領地などを寄進されて確立しました。