但馬のお城、芦屋城

ここ、兵庫県新温泉町の海辺にある小さな要塞、芦屋城は戦国時代塩冶(えんや)氏が居城としていたところです。地方の片田舎のこんな小さな城跡など地元の人以外誰も知りません。芦屋城は標高一七五メートルの山城で、日本海を眼前に断崖絶壁に囲まれた天然の要害です。塩冶周防守は、芦屋城最後の城主です。塩冶氏は出雲から来たという説もあるがはっきりしたことはわかりません。 天正八年(一五八〇)に始まる秀吉の第二次但馬征伐は、但馬山名の滅亡をもたらすとともに、郷土の人々が、塩冶周防守、芦屋城(亀ヶ城)・城山などと称して今日でも親しく呼んでいる塩冶氏の滅亡をももたらしました。天正八(一五八〇)年五月、出石城を攻略した秀吉は、降将垣谷・八木・磯辺らをひきつれて二方(旧、美方郡)の芦屋城の攻略に向かいました。二方の芦屋城を攻略し但馬を平定した秀吉は、宮部善祥坊を豊岡城主としました。これより浜坂地方(現、新温泉町浜坂)は織田信長の勢力下に入りましたが、塩冶周防守は逃れて鳥取山名を頼ります。これより先、鳥取城主山名豊国は尼子に降り、尼子が滅亡して毛利元就の部将吉川元春鳥取城を攻めると、豊国はまた和睦して、家臣はみな吉川元春に従いました。
 天正八(一五八〇) 年但馬を平定した秀吉はさらに因幡に入り、まず鹿野城を攻略、ついで山名豊国を鳥取城に攻め、八月二十一日これを降伏させました。ところが豊国の家臣、森下出羽守道誉・中村対馬守春次らはなお降らず、秀吉は兵を帰して姫路に帰りました。翌九(一五八一) 年、森下・中村らは吉川元春に乞い、吉川経家を迎えて大将とし、経家は二月二十六日、いよいよ芸州を立って鳥取城に入ったが、七月に入って秀吉は兵五万をもって鳥取城を攻めました。経家は出城を雁金山に、また丸山にも砦を築き、塩冶周防守に雁金山を守らせ、奈佐日本助らに丸山を守らせました。秀吉は先ず雁金山を攻めました。周防守は必死に戦いましたが、宮部善祥坊は兵を督して攻め立てたのでついにかなわず、丸山城に入り日本助とともにこれを守りました。本城の鳥取城は、十月二十五日吉川経家の自刀によってついに落城し、周防守は日本助らとともに丸山城で切腹しました。塩冶周防守はこの時六十五歳だったといいます。塩冶氏はここにおいてほろびました。周防守の墓は鳥取市浜坂にあるといいます……。なお浜坂はここ兵庫県新温泉町にもありますし、鳥取市郊外にもあります。    
 下の写真は兵庫県新温泉町の浜坂港から芦屋城を見上げたところです。  

芦屋城跡のある城山中腹に城山公園といいまして、展望所があります。そこから徒歩で城跡のある山頂に登って行くのですが、その登り口にある看板です。                                     
城山公園より、浜坂とは反対側の海辺の漁村、諸寄の海岸の眺めです。                 
現在は山頂には放送局の白い建物が建っているのみです。                  
これは以前紹介しました鳥取城久松山山頂からの眺めです。前方に白い電波塔のようなものが立っているところが鳥取城攻城戦の時、塩冶周防守が守備していた要塞、雁金城です。                                 
以上ここまで9月8日から秀吉の但馬・因幡征伐と、鳥取城攻城戦に関連する記事を城を中心に駆け足でおおまかにつづって来ましたが、とりあえず鳥取城攻城戦関連記事はここで完結です。