因幡甑山の戦い、「鳥取城のたのも崩れ」

元亀二年頃、山中鹿之助(幸盛)は信長に謁し、中国征伐の先鋒となり、山陰に入って故国出雲を回復しようとしました。丹後から因幡の海岸に渡り、船を岩本につけ、浦富の桐山城を攻めてまずここに籠りました。
その頃因幡では武田高信が鳥取城によって布施の屋形にそむき(この頃まで因幡の本城は湖山池のほとりの布施にあった)、次第に勢を得ていたので幸盛は山名豊国を助けて高信を討ち因幡一円に勢力を張ろうとして、桐山の城から甑山(こしきやま)の城へと移りました。甑山は鳥取県岩美郡国府町町屋にあり、標高八○メートルでさほど高い山ではありませんが、かなり急崖です。 幸盛のもとには山名の旧臣たちが多くつきました。これを知った鳥取城の武田高信は四、五百騎を率いて甑山城を攻撃したが、甑山は山としては高くないものの険しくて容易に攻撃できませんでした。山中鹿之助は武田高信の軍勢に大打撃を与え、武田勢は再起不能なまでに討ち破られて鳥取城に退きました。これを「鳥取城のたのも崩れ」といいます。下の写真が甑山です。
これは逆方向の南東方向から北西方向を撮ったものです。甑山の向こうには鳥取城のある久松山と鳥取市街が広がっています。      
少し山すその方に近づいて。                             
甑山の真下から。なお、甑山城は南北朝時代にはすでに存在していたらしく、平貞泰が城主であったことが知られています。 しかし天正元年(一五七三)の冬、山中鹿之助因幡退去の後、甑山城は廃城となりました。