竹田城

これは以前にも紹介しました竹田城です。


兵庫県和田山町竹田城は但馬守護山名氏の家臣太田垣氏が居城し、天正五年(一五七七)
織田信長の部将羽柴秀吉の但馬攻めがはじまると秀吉の弟秀長が拠り、桑山重晴が継ぎ、赤松広秀
が現在も見られる石積みの城に改造し、徳川時代になると共に滅んだ城です。



天正五年(一五七七)十月羽柴秀吉は山口岩州城、さらに竹田城を攻めて太田垣輝延を退散させた。
竹田城には弟羽柴秀長を城代として入れ、朝来・養父二郡を治めさせました。
太田垣氏による竹田城支配は終わります。


天正八年(一五八〇)羽柴秀長は、播州三木城の別所長治を討つと再び竹田城に戻り、
但馬攻めを完了し出石城に移ります。翌九年には秀吉の配下となって鳥取城を攻めます。
同十年、秀吉は竹田城主に桑山修理太夫重晴を任じ、ついで十三年赤松弥三郎広秀を入封させます。


二万石を拝領した広秀は、九州島津攻め、北条小田原攻め、朝鮮出兵に参加するが、慶長期
(一五九六〜)に入って竹田城を大修理し、今に見られるような鶴翼の陣形の石垣の城をつくります。
近江穴太(あのう)流の石垣です。




慶長五年(一六〇〇)七月、関ヶ原の合戦がおこります。
広秀は丹後田辺城に細川幽斉を囲むが、西軍の大敗を聞いて竹田城に帰ります。
その後、亀井武蔵守玆矩を助けて宮部兵部少輔元房を鳥取城に攻めます。
この時、城下に火を放ち延焼させたことを徳川家康から詰問され、鳥取・真教寺で自刃し、
竹田城は廃城になりました。


実は広秀は、備前岡山城宇喜多秀家の妹を妻としており、この時秀家をかくまった疑いがもたれていたのです。
広秀は儒学者藤原惺窩(せいか)の学問を私淑し、姜𦫿(きょうこう)「朝鮮の朱子学者、朝鮮出兵のとき
捕虜となり伏見城に移されるが、ここで朱子学を教えている。」を支援するなど、学者肌の武士でありまし
た。