大和〜明日香路 旅日記 7


翌朝、天武・持統天皇陵を訪れてみました。





天皇陵は、こんもりと小高い丘の上にありました。


七二九年八月十日、聖武天皇の夫人で藤原不比等の娘である光明子が皇后になりました。
臣下の女性が天皇の正妻として皇后になるのは、これが最初です。
皇后の称号が定着したのは天武朝と考えられています。





太上天皇(だいじょうてんのう)。
それは、譲位した天皇をいいます。
上皇太上皇と略し、院とも呼ばれ、その御所は仙洞・仙院と称されました。
初例は持統太上天皇で、中国の太上皇太上皇帝にならって大宝令で制定されたものと
考えられ、譲位と同時に、この称号と天皇在位中とかわらない権能を保証されました。








少し離れて眺めてみました。

夫婦一緒に葬られた合葬陵です。

持統天皇は、天皇としてはじめて火葬されています。





あすか、飛鳥、または明日香とも。
語源については鳥のイスカの群棲地説、洲処(すか)説、
朝鮮系渡来人の安住地(安宿)説などがある。



この日、天武・持統天皇陵を参拝したあと、北を目指し、
奈良の東大寺を訪れてみました。




そして東大寺、南大門。




ここはいつ来てもたいへんな人だかりです。
外国人観光客の方もたくさんいらっしゃいます。
また、“鹿せんべい”を手に持っていると、身動きできないぐらい鹿が群がって来ます。
それもこの場所の風物詩なのでしょう。




これは、中門から大仏殿を眺めたところです。
とにかく大きい。
巨大な岩山のようにも見えます。




大仏殿も、大学時代に一度か、二度ほど訪れています。
大仏殿の周辺の鏡池ですとか、二月堂辺りなどは友人とよく来て、
たわいもないことをいつも話していたのを憶えています。




毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)

    サンスクリットのバイローチャナの音訳。


サンスクリット
    古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。


バイローチャナ

    中国や日本などではビルシャナ(毘盧遮那如来)と呼ばれ華厳宗の中心仏とされている。




東大寺金堂(大仏殿)の大仏は、毘盧遮那仏です。

聖武天皇河内国知識寺の毘盧遮那仏を拝して感動し、造立したと伝えられます。



どうでしょうか、聖武の傑作、威風堂々、東大寺大仏殿。



そして七五二年(天平勝宝四)四月九日、孝謙天皇聖武太上天皇光明皇太后はそろって
東大寺行幸し、大仏開眼供養会が挙行されました。
供養を執行する僧侶千人余りの他にも僧尼や沙弥など計一万人に及ぶ人々が集まったといいます。




開眼供養とは、新たに造られた仏像や仏画を堂宇に安置する際に行う儀式のことで、
仏眼を開き魂を請じいれる意味で開眼といい、香華(こうげ)・護摩(ごま)などの供養を伴います。
この儀式をへてはじめて神聖な尊像とみなされました。





大仏殿の東側、二月堂に向かって歩いて行くと、行基堂がありました。
行基は私度僧集団を従えて道路を造り、橋を架け、布施屋とよばれる流浪民の救助施設を作りました。
晩年は大仏建立に協力したといいます。






エピローグ。



もし仮に、あの時あそこで大伴家持に出合ってなければ、
こうやってここまで足を運んでなかったかも知れませんし、
このブログを作ることもなかったかも知れません。

中学・高校時代の日本史の授業を思い出します。
教科書の中の、古代の項目なんて、ほんとに主要な出来事を大まかに書いてあるにすぎません。
その時は、今の自分のように、心躍らせて活字を追っていたわけではありませんでした。
難解な歴史用語が大きな壁で、歴史を好きになろうと何度も試みても、
いつも立ちはだかるその壁に阻まれて、その向こうにある夢の世界を見ることが出来なかったのです。
それでも、個性的な名であったが故、“大伴家持”という名は鮮明に僕の脳裏に刻まれていました。


子供の頃から慣れ親しんできた隣まちの鳥取で、
家持に出合った時はほんとにびっくりしました。


ほんとにね、大伴家持は新たな歴史世界への扉を開けることになった、
僕の心に革命を起こさせてくれた恩人だったのです。