大和〜明日香路 旅日記 6

向こうの丘の上に見える建物は万葉文化館です。
ここから視線を90度ほど右に向けて、小道を少し歩いて行くと、



小さな社、大原神社があります。この辺りは藤原鎌足の誕生地のようです。



先の看板にもありましたように、この神社の奥の小道を下りた竹田川のほとりに、
藤原鎌足産湯の井戸”というのがあるみたいなのですが、
今は夏ですし、草木が生い茂っていて気持ち悪い状態でした。
そのうえ僕は生き物の中でもとりわけ“クモ”が苦手ですのでそこへ行くのは断念しました。
行くなら生き物が冬眠し、草木が生い茂っていない殺風景な真冬に行くべきです。
この辺りは冬でも雪はあまり降らないでしょうし…。


下は看板の最後の方に記述されていました天武天皇鎌足の娘、藤原夫人との間で交わされた
万葉集の歌です。




そしてまたここからほんの五十メートルほど小道を歩いて行ったところに、
鎌足の母といわれる“大伴夫人”の墓があります。
小道の脇にこのようにぽつんと立っています。



天平のトップレディー光明皇后
武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤四子、
後の世の平安時代に栄華を誇った藤原北家…、
近世では幕末の大老井伊直弼、昭和期の首相・近衛文麿など、
もとを辿ればこの藤原鎌足が祖となります。
藤原という氏の名称は、鎌足が重病の床で天皇から賜ったもので、
その本拠であるこの地、大和国高市郡藤原の地にちなんだものともいわれます。



“大織冠”という言葉があります。
六四七年(大化三)の冠位制で一三階の最高位であり、
六四九年と六六四年の改訂でも同じく最高位とされ、
六八五年(天武一四)正位を最高位とするまで続きました。
ただし六六九年中臣(藤原)鎌足が死の直前に与えられたのが唯一の例で、
鎌足個人をさす語ともなりました。


鎌足誕生の年から一三九七年後の風景が顔をのぞかせていますね。