西宮

朝堂院は宮城(大内裏)にあって政務・儀式などが行われた宮内の中心的施設です。
朝堂の字句はすでに七世紀の文献に散見するが、朝堂院の語がみえるのは長岡京の時代であり、
平安時代には八省院と称されました。
構造は北から天皇が出御する大極殿、臣下が朝政で着する朝堂、また参集した臣下の待機場所でも
ある朝集堂となっています。


だいたい平城宮跡の図面を見ると、朝堂院がふたつあることにまず疑問を抱きます。


画面は西側の第一次朝堂院地区で、前方は復元された大極殿です。
ここには元明朝の頃には藤原宮の大極殿を移築した唐風の建物があったようです。




こちらは東側の第二次朝堂院地区で、画面に見えるのはその大極殿跡です。



平城宮の遺構は大きく四時期にわけられるようです。
元明・元正朝の遺構、聖武朝の遺構、淳仁帝の大改修、さらに遷都後の平城上皇による
宮の造営です。


下の写真は第二次朝堂院地区の大極殿跡から朝堂を眺めたところです。

 



この、第二次朝堂院地区の大極殿跡には元々は大極殿に類似した大安殿があったようです。
天平宝字四年(七六〇)の淳仁帝の大改修工事の時、大安殿を解体して大極殿にふさわしい
建物に改装したそうです。




そして第一次朝堂院地区では内裏にかわるべき宮殿を大極殿の跡地に企画したようです。
この時の旧大極殿の跡に新築した宮殿は中宮(院)とよばれていましたが、ふたたび天皇の位についた
称徳帝は、これを西宮(さいぐう)と改称しました。
そして皇位にもどった直後の朝賀の儀式を、この西宮の前殿で行っています。



また、僧六〇〇人に食事を供して行う仏事供養や、新穀に感謝し、来年の豊作を祈願する
新嘗祭もここで行い、寵愛した僧の道鏡を伺候させるなど、西宮を重く用いました。
つづいて皇位についた光仁天皇の時代にも、西宮の前殿で宴が行われています。



この平城宮の変遷はかなり複雑で諸説あり、
今日でも意見がいりみだれてなかなか確定できないようです。
そしてこれら二つの朝堂がどのように使い分けられていたかもわからないようです。
また、これまでは平城宮朝堂院中央区(第一次大極殿)北方の内裏をこの西宮をあてる考えがあった
が、近年「西宮木簡」が発見され、東区(第二次大極殿)北方の内裏にあてる見方が有力のようです。



そして、古代から中世に天照大神の“みつえしろ”として伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王・女王。
こちらは斎宮(さいぐう)です。


時に七二一年(養老五)、伊勢斎王になったのは聖武天皇県犬養広刀自との間に生まれた、
井上内親王
聖武天皇の即位以前に、皇太子の娘の立場で斎王になり、聖武の時代も斎王でありつづけていますか
ら、聖武即位を確実にする基礎固めだったと考えられているようです。