鳥取、池田家墓所

関ヶ原の戦いで勝った徳川家康は、西軍に加わった因幡伯耆の諸大名の領地を取り上げ、鳥取城に池田長吉(ながよし)、米子城中村忠一(ただかず)、鹿野城に亀井玆矩、若桜鬼ヶ城に山崎家盛をそれぞれ配置しました。大阪の陣で豊臣家が滅ぶと、翌々年の1617(元和3)年播磨国姫路城主であった池田光政鳥取城主として因幡伯耆をまかせることにしました。これによって因幡伯耆両国に配置されていた諸大名は一斉に他国に領地を移しかえられました。鳥取城には池田光政(みつまさ)が入り、ここに光政による因幡伯耆両国32万石の支配が公認されました。1632(寛永9)年、光政の叔父であった岡山藩主池田忠雄(ただかつ)が病死したとき、その子の光仲はわずか3歳であったために幕府は光政を岡山に移し、かわりに光仲に因幡伯耆を与えました。ちなみに忠雄の母は家康の娘の督姫で、光仲は家康のひまごにあたります。ですから、鳥取池田家は外様大名ですが、徳川家とゆかりの深い家柄となります。 
 これより光仲を藩祖とする鳥取鳥取池田家が成立し、以来12代、238年間の因幡伯耆両国の統治が続きました。鳥取藩では、倉吉と米子城重臣の荒尾氏一族に与え、その地域の政治をある程度まかせています。これを鳥取藩では「自分手政治」(じぶんてせいじ)といいました。
 
 ☆鳥取池田氏岡山藩主池田忠雄からその子の1代目鳥取藩主光仲から12代目まで、 忠雄(岡山藩)→光仲(鳥取藩)…綱清…吉泰…宗泰…重寛…治道…斉国…斉稷…斉訓…慶行…慶栄…慶徳


墓所入り口にある案内板です。                            

池田家墓所の門です。                                  

池田家の系図です。門の手前にあります。

門をくぐったところです。参道はすべらないようにゴザが敷いてありました。

鳥取藩初代、光仲公の墓です。

光仲公のお墓をあとにして

杉並木がいい感じです。厳粛な気持ちになります。

灯篭の向こうには三代目吉泰公の墓があります。

池田家墓所はなかなかいい庭園で、りっぱなお墓でした。