蓮華王院領、温泉荘(ゆのしょう)

二方郡(兵庫県、旧・美方郡)温泉郷は、律令時代の郷がそのままくずれずに、平安時代末期まで存続した郷のようです。
 この温泉郷に成長した在勢力の有力者に、平季盛・季広・季長の三代がいました。平季盛は伝領の地の確保を計り、温泉郷司や百姓の抵抗を押しのけて、強引に温泉郷全域を私領化するとともに、、保延五年(一一三九)これを子供の季広に譲渡しました。季広は但馬国司に取り入って、康治元年(一一四三)の頃、この温泉郷の領有権の承認を得ました。季広はさらにこれを阿闍梨聖顕(あじゃりしょうけん)に付属させましたが、その時ここに地頭たるによって下司職に補したそうです。

 ☆阿闍梨とは天台宗真言宗密教僧の僧職のひとつとして最深密の秘法である伝法潅頂をうけ、それを執行する僧侶をいいます。

 地頭は鎌倉時代、頼朝が設置した地頭とは全く異なった性質のもので、、この平安末期のころの地頭は郷司のことのようです。それも平氏政権下で平氏御家人が任命されていました。平季広も平家の御家人であったかもしれないようです。彼ははじめ平家政権下に組し、次に木曾義仲に従い、彼が破滅しさえしなければ、木曾義仲の失脚後は次の政権になんのためらいもなく従ったであろうと考えられる人物です。このころ、平氏政権が高揚していたので、平氏に取り入って御家人の名簿を呈していたものと思われます。平姓を名乗っているのもその自己顕示であったし、聖顕に温泉郷を寄せたのも、さらに深く平氏政権に結びつきたい気持ちがあったからと思われます。すなわち、このころ、後白河法皇御願の蓮華王院造営工事が京都東山で進みます。聖顕はこの時、僧綱の功を募って、鐘楼一字を造進し、その功で温泉荘の荘号を許されました。私領に荘園が設定された。御願寺のの領有地が数多くある中で、このように成功によって荘号を被るのは、その例がないとされたほど違例のことでした。それだけに季広━聖顕━蓮華王院━後白河法皇の人脈は、後白河法皇を支持する平氏政権との癒着につながります。
 それは、阿闍梨聖顕という中央に関係ある僧侶の縁にすがろうとして私領を譲り、聖顕はこれを得て鐘楼造進の資とすることで、後白河法皇に接近することになります。聖顕はさらにこれを緊密化する努力を忘れません。蓮華王院が完成するのは長寛二年(一一六四)十月。これを待ち受けるかのように翌長寛三年(一一六五)、聖顕は、毎年能米百斛を寺庫に進納し、その代償として、聖顕の門弟が領家を相伝することを確認してもらう条件をつけ、温泉荘という荘号をもった温泉郷の地を蓮華王院に寄進します。寄進行為は直ちに承認されました。後白河法皇の院の庁は、但馬国司の留守所に宛て、温泉郷をもって蓮華王院領とし、官物ならびに雑木などを免除する旨の庁宣を発します。

 なお、一二八五年(弘安八)の『但馬国大田文』によると、田数は七十四町六段余。また蓮華王院はぞくにいう三十三間堂のことで、この院領は後白河院から後鳥羽天皇に譲り、承久の変後、後堀河、後嵯峨を経て亀山天皇に伝えられ、大覚寺統が伝領した領地で、今までに判明したものは二十四ヵ国、三十二ヵ所以上といわれ二方郡内では温泉荘が蓮華王院領にぞくしていました。

 また、蓮華王院は『愚管抄』によれば、平清盛備前国を知行して造営したといいます。以前に、鳥羽院が清盛の父、平忠盛に命じて造らせた得長寿院の例があるので、後白河法皇は期待をこめて造営を清盛に命じたのでしょう。後白河法皇が、蓮華王院の造営を考えるようになったのは応保二年(一一六二)正月に熊野に詣でた時であったようです。ちなみに蓮華王とは千手観音の別称です。

次の写真は、兵庫県新温泉町にある今現在の湯村温泉です。約1150年前、慈覚大師によって発見されたといわれています。城崎温泉とともに但馬を代表するいで湯です。平安時代末期、この周辺は蓮華王院領の温泉荘(ゆのしょう)だったようです。足湯につかっている風景がのどかです。

また、湯村温泉はNHKドラマ『夢千代日記』で一躍有名になりました。左側に吉永小百合がモデルになっている夢千代像です。    

これは摂氏98度の源泉が湧く荒湯(あらゆ)です。ここで玉子をつけると温泉玉子の出来あがりです。