因幡国府への旅

旅というと、なんか遠くへ行くような感じがしますが、自宅から因幡国府までは40分ほどで来れます。旅の目的は『 因幡国庁跡 』。地図上にほんの身近な所にに因幡国庁跡がしるされているのを以前から知っていて、行って確かめてみようと思い立ち、いざ。

 そしてその因幡国庁跡は鳥取市郊外の国府町中郷(ちゅうごう)の田んぼの中にあり、鳥取市中心部から南東の方向に車で10分ぐらいでしょうか。因幡国庁跡へ行くまえに、近くにある『 因幡万葉歴史館 』にまず行ってみました。ここも以前から気になっていた所です。

 広〜い駐車場があり、その駐車場の入り口にある因幡万葉歴史館の表看板です。“ いなばまんようれきしかん… ” なんかとっても響きがいいです。

 前方左側に見えているのは“時の塔”といって塔のいちばん上は展望台となっています。高さ15メートルほどでしょうか。


万葉歴史館の屋根のうしろに甑山(こしきやま)のあたまが見えています。じつにいいですね〜、このフレーム。甑山というとこの間ご紹介しました、戦国時代に山中鹿之助と武田高信の合戦があったところです。               

 

 受付で入館料500円を払っていちばん最初の展示ホールに入っていきなり高さ2メートルぐらいありましょうか、紫色の袖の長い羽織をはおった『 大伴家持像 』がぬぅ〜っと、ホールの真ん中に立っていてこちらを凝視していたのです。いきなり度肝を抜かれました。 “ 大伴家持って…、たしか中学か高校の時日本史で習ったし、名前は超有名だから知ってるけど…  なんでここに…?  ” って思いながら、その2メートルほどもある復元された家持像をまじまじと見つめました。ほんとに日本人らしい顔かたちで頭には黒い烏帽子をかぶっていました。紫色というのは、そこに書いてあった説明書きはくわしくは忘れましたが、当時そのような色合いのものを着用していたようです。大伴家持が生きた時代というのは今から1250年ほど前です。気の遠くなるような遥かむかしです。その紫色を見ていると意識がすうっと1250年前へと飛んでいくような、時間感覚を失くしてしまうような不思議な感覚になりました。

   その大伴家持天平宝字二年(七五八)、因幡国守に任命され約三年半、因幡国の行政を行っていたのでした。そんなことは今までまったく、知りませんでした…。

  万葉歌人であった大伴家持は、因幡国守に任命された翌年の天平宝字三年正月元旦、国庁に国司や郡司を集めた新年祝賀会の席上、   “ 新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと) ” という、『万葉集』の最後を飾る有名な歌を詠みました。家持はこのあと、二十五年あまりも官人として生きつづけ、陸奥多賀城で六十八歳の生涯を閉じるのですが、その間の歌がまったくないそうです。家持はなぜ歌わなくなったのでしょうか。いろいろ推測されているようですが、そのことで因幡国府は「万葉終焉の地」とされ、また「万葉の編纂地」ともされて、古来、国文学者、とくに万葉学者の間で関心がもたれるようになったということです…。         
 館内には、あと伊福吉部徳足比売(いふきべのとこたりひめ)の像や因幡の民俗芸能、因幡国庁の復元模型などが展示されていました。そして先ほど紹介しました“時の塔”に上ってみました。                      
 最初一瞬階段で上ろうかと思いましたが、真ん中にエレベーターがあったのでそれで上りました。ここで因幡三山といわれる山を紹介します。先ほどと以前にも紹介しました甑山(こしきやま)と、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま)です。
 まず最初の東側のこの山が甑山です。屋上の展望台からの眺めです。まさかあの山中鹿之助と武田高信の合戦のあった甑山が因幡三山のひとつとは知らなかったです。そして、甑山は米を蒸す器に似ていることから甑山というのだそうです。またひとつ勉強になりました。      
 その次の南側のこの山が今木山です。万葉集に作者不詳の歌があります。“ 藤波の散らまく惜しみほととぎす 今城(いまき)の丘を鳴きて越ゆなり ” この歌の今城の丘が因幡の今木山をさすのかどうかわからないが、万葉集の編纂者とされる大伴家持が、この歌に注目し万葉集に収めたと考えられています。                               
 しかし、じつに素晴らしい風景です。大伴家持のいた1250年前の奈良時代因幡国府、ここにどんな村々や住宅が建っていてどんな光景だったんだろうと思うとうっとりとしてしまいました。こんなことは今の今まで知らなかったのです。この日一日で世界観が変わりました。こんな魅力的な土地がこんな身近にあるなんて…。僕としては大発見でした。なんか聖地に来たような、そんなふうに思えてならないのです。  僕の郷土の但馬という土地は切り立った山が多く山がちで平野がせまく、夕方日が傾くとすぐに山に太陽が遮られて谷間は真っ暗といった感じなのですが、ここ因幡は低い山が遠くに連なっていて平野が広くて見ての通りのどかぁ〜な感じです。ひじょうに、どう言ったらいいんでしょう、のんびりと落ち着ける、そして麗しい感じです。

 そして三つ目の西側少し遠方に見える山が面影山です。 面影山の少し手前に白い工場のような建物群が見えますが、その右側に低い植木のような木々がまばらに立っているところが因幡国庁跡です。 右前方は鳥取市街です。                 

 
 はい、これは展望台の内側です。こんな感じです。右側に見える山すそには鳥取池田家墓所宇部神社《(うべじんじゃ)創建は六四八年といわれ、因幡国の一宮だったそうです》があります。いろんな史跡がこの地域にかたまっています。歴史の宝庫です。ここは。こんなことなら鳥取大学史学科に行けばよかったのです。そうすれば卒業論文は最優秀賞だったでしょう…???                  
 
 歴史に興味を持ち始めたとはいえ、今のところ強く興味を持っている時代は平安時代と、その次に戦国時代が来ます。年代で言えば794年から1582年の間。とりあえずこの期間以外はこれまでは全く興味がなかった。僕の心の中で、未知なる世界へのとびらが開かれたのかもしれません。遠いいにしえの風に吹かれたい… そんな気持ちになりました。

 そして因幡万葉歴史館から少し行った集落のはずれに、大伴家持の歌碑があります。                        
 後方左側の石が家持の歌碑です。                         
 
 歌碑を下からアップ。 いちばん上に天平と新年という文字が見えますね。                            
 
 そして家持の歌碑の反対方向の20メートルぐらいのところに専用駐車場があるのですが、そこにこんな石碑もありました。これも大発見です。                                        
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 ここをまっすぐ行けば鳥取池田家墓所宇部神社があります。                

 これは稲刈りが終わった田んぼです。因幡は古くは稲場と書き、刈り取った稲の寄馬の意からこのように呼んだといいます。

 前方に見えるのは甑山です。土地が生き生きと輝いているようにも見えます。1250年前の大伴家持の時代からここでどれだけのドラマが展開されたんでしょうか。大伴家持、橘行平、平時範平清盛の祖父平正盛因幡国守でした。鹿之助、秀吉、数え切れないほどです。   

 いよいよ因幡国庁跡に近付いて来ました。                      
 そして、因幡国庁跡です。ここで写真を撮っていると、この周辺のおじいさんでしょうか、背後を自転車で通り過ぎる時、“ 写真撮っとんなるですかな?『地元の言葉』 ” と、声をかけられ、一瞬叱られるのではないかと引いてしまいましたが、そうではなく自転車から降りて来て、地元の話しや歴史の話しを30分ぐらいしてしまいました。最初は “どっから来なった?…  兵庫県です…  ”という感じで話が進んで行き、なごやかに話しをして、最後のほうでは “ 最近は子供がおらんようになって、祭りが出来ませんがな…、 日本国中今はそうですねえ…   まあゆっくりしていって下さい… ” なんて感じでおじいさんはまた自転車で田んぼ道をゆっくり走って行きました。なんかとってもなごやかな気持ちになりました。出かければ、こんなちょっとした出会いもあるのです。             


 国庁、正殿跡に近付いて行きます。                           


 ここで…、ここで…、大伴家持様は三年半、因幡国の行政を行っていたのです。正殿跡です。        

 
 反対側から向こうの正面が正殿跡です。                         

 
 秋です。秋を彩る花コスモスが、国庁跡のはしっこに風に揺られながら咲いていました。思わず一枚。くっきりとあざやかな色をかもし出していました。