豊岡藩札

 徳川幕府は、慶応三(一八六七)年に発行の江戸横浜通用金札・江戸および関八州通用金札・兵庫開港札をべつとすれば、終始硬貨主義で通したため、財政困難にもかかわらず、紙幣の発行は原則としておこなわなかった。しかし、財政困難は幕府だけでなく、地方の各藩はさらに窮乏していたので、幕府の許可を得て、各藩ごとに藩内限り通用の札、つまり藩札を発行して、財政の急場を救う一手段とした。藩札のはじめは、四代将軍家綱の寛文元(一六六一)年越前福井藩が発行した銀札であるとされ、表に銀何匁と価名を墨で書いてあります。そののち幕府の許可を得ずに、特産物の商品切手のような形式で発行し、藩札制限の幕府の目を逃れるものもでてきました。

 全国的に見ると傘札・ロクロ札・蠟札・砂糖札・酒札・炭札など非常に種類が多く、図柄もそれらしく描かれていますが、それは名目だけで品物に関係なく、その額面記載の金額通りの紙幣として通用させたものです。また商人の間ではそれより早く、取引上の決済に私札を発行していました。慶長〜元和期(一五九六〜一六二三)の伊勢山田の羽書と呼ばれる銀札は、わが国最古のものとされています。
 
 その後、名古屋・大垣・高山・岸和田・宇和藩などで続々と発行され、延宝年代(一六七三〜一六八〇)に入ると、岡山・福山・姫路・徳島・それに但馬の豊岡藩も藩札を発行しました。