平家の但馬守

平氏の中で最初に但馬の受領となった人は、平正盛です。清盛の祖父ですね。受領(ずりょう)とは、平安時代の地方長官のことです。そしてこの頃、平氏の武名はまだ挙がっていなかったのに対して、源氏は源義家が前九年・後三年の二役を戦い抜いて、武士の長者としての風格を高めていました。この義家の子が源義親。ずいぶんと暴れん坊だったようです。
対馬守時代、目にあまる暴政を行って、朝廷から追討を受けると、逆に官使を殺害する始末でした。そして隠岐島流罪ときまった時も、出雲から動こうとはせず、出雲の国衙の役人を殺害するなど、手におえない状態でした。義親追討の任は、当時まだ名もない平正盛に命じられたのでした。


嘉承二年(一一〇七)十二月十九日、京都を発して出雲に下った平正盛は、翌嘉承三年(一一〇八)正月六日には、あっさり義親を誅伐してしまいました。正盛の武威名は挙がり、即座に因幡守から但馬守に選任しました。
平家物語には、こう語られています。
今度は讃岐守平の正盛が前対馬源義親追討のために、出雲国へ下向せし例とて、鈴ばかり給はって、皮の袋にいれて、雑色(ざふしき)が頸にかけさせてぞくだられける…。
新但馬守平正盛は、正月二十九日、義親の首級や降人を具して、京都に馬上凱旋しました。しかし、但馬を受領した正盛が、どのように但馬を経営したか、史料的には語るものがないそうです。
この後、正盛は源義親を追討したことに関してずいぶんと世人のそねみを買い、また、日本のあちこちでしばらくの間、源義親と称するものが出没したと、何度となく報じられているそうです。


平正盛の子が忠盛で、忠盛も但馬守になったといいます。それは天承元年(一一三一)のことです。鳥羽上皇御願の得長寿院を造営した功績によって、念願の内昇殿を果たした時です。たまたま但馬の国の国司が欠員となっていたので、但馬の国が平忠盛の勧賞の対象となったといいます。
これが事実ならば、平氏は正盛・忠盛の父子二代にわたって但馬を支配体制下に置いていたことになりますが、この話しの出典は平家物語にあるので一考を要するようです。物語や軍記物などに見える話しは資料としては良質とはいえないものが多く、忠盛但馬守任官説は疑問としなければならないようです。
平家物語では、忠盛の内昇殿をこのように語っています。
しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院(とくじょうじゅいん)を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏をすゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国(けっこく)を給ふべき由仰せ下されける。境節(おりふし)但馬国のあきたりけるを給ひにけり。上皇御感のあまりに、内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す…。


忠盛の子が清盛。清盛が、保元・平治の二つの乱に軍士を動員した国は、伊勢・伊賀・河内・備前・備中でした。但馬はこの兵乱には無関係でした。ということは、清盛の祖父正盛が、但馬を知行国としたにもかかわらず、但馬と密着していなかったということになります。但馬を完全に掌握しきっていれば、多数の戦士に動員令を発することが可能だったはずです。
しかしこの乱のあと、平氏政権に身を投じようとする但馬人が現れてきます。平季広がその一人です。平季広は『蓮華王院、温泉荘』のところで紹介しましたが、永萬元年(一一六五)自分が手に入れた二方郡温泉荘の地を阿闇梨聖顕に寄進しました。聖顕はこれを蓮華王院に寄進したから後白河法皇院政との接近があるのと同時に、院政を介して平清盛と結びつくことになります。季広が平姓を名乗っているのも、平氏から御家人の地位を受けていたことでありました。ここに極盛期の平氏政権と、但馬とのかかわりが成立しています。


しかし、平季広のこの態度は、平氏が強勢であった一時期だけのことであり、やがて木曾義仲平氏に代わって京都に入りこむと、この関係を平季広の方から断ち切ってしまいます。ところが皮肉なことに、平季広が離反したこの時期が、但馬が名実ともに平家の知行国となった時でした。
それは治承三年(一一七九)十一月のこと。但馬守は平経正知行国守は経正の父経盛という構成でした。ちょうどこの時京都では、大量の貴族・官人が解官され、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して清盛の独裁政治が始まっていました。いわゆる治承三年十一月のクーデターです。
平経正が但馬に在任した期間は四年で、国司の一任期分でした。しかしこの四年は平氏政権が解体する直前の任期で戦乱に明け暮れた四年であったため、平経正は但馬を平氏の領国へと完全に編成し切っていませんでした。但馬と平氏政権との関係は淡いものでありました。
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では、平氏が領主として臨み、軍事的動員を行いえた但馬の地はいったいどこかと申しますと、「但馬国太田文」によれば、関東御領が但馬に六ヶ所も存在し、かつ但馬南部に集中しているのがわかります。
関東御領は、鎌倉幕府が管理権を持っている土地で、いわば幕府の直轄領ともいってよい土地です。平氏滅亡に際して、朝廷に没収された平氏一門の所領は五百か所に及んでいました。この平氏没官領(へいしもっかんりょう)の大部分は、賞として源頼朝の手に帰し、関東御領というものになっていました。裏をかえせば、関東御領はもとは平氏の所領地だったのであり、この但馬の六ヶ所の関東御領の地も、平氏が滅亡以前に領有していた土地だったわけです。但馬守平経正は、このような但馬の平氏の直轄地の武士団を中核として編成し、寿永の内乱期に源義経の軍隊に対抗していたのでした。