伯耆大山寺の伝える平家三代

ここ大山寺は、鳥取県西伯郡大山町の伯耆の名峰大山(だいせん)の中腹にあります。大山は中国地方最高峰の山で、標高1729メートル、『伯耆富士』 『出雲富士』とも呼ばれます。ちょうどこの季節、紅葉が実に素晴らしいです。これは大山寺に向かう参道です。


大山寺は8世紀開創の天台宗の古刹で、山岳仏教の修験場として平安・鎌倉時代に隆盛を極めました。最盛期には約3000人の僧兵を擁して比叡山高野山と並ぶ寺勢を誇り、44もの諸院を数えたましたが、今は10の堂を残すのみです。そして、中国観音霊場二十九番礼所、伯耆音霊場十四・十五番霊場となっています。
大山寺山門に近づいて来ました。紅葉が美しいですね。


大山寺山門です。


山門から石段を少し上れば本堂が現れます。


大山寺本堂正面からです。
この大山寺の大山寺縁起によりますと、正盛、忠盛、清盛の全盛を誇った平家三代と伯耆とのつながりが伝えられています。
それには、康和五年(一一〇三)三月、源義親隠岐に流されたが、やがて隠岐を占領し、出雲国へ渡って蜘戸(くもど)の岩屋という所を拠点に武威をふるっていました。そこで白河上皇は、当時因幡守であった平正盛に命じて義親を追討させました。天仁元年(一一〇八)一月正盛は伯耆に下向して義親との対戦に先立ち、大山権現に火威(ひおどし)の鎧一領を奉納し戦勝を祈願し、その効あってか翌二年一月には義親以下の首を討ち京都に凱旋することができました。そのさい正盛は、因幡伯耆・出雲三国の軍勢を率いたといいます。


そして、正盛の子忠盛は伯耆守に任ぜられたとき、わざわざ下向して大山権現の社壇に参り、大般若経・地蔵十輪経・金剛経、それに等身大の地蔵菩薩像を神殿に奉納し、さらに田苑を多く寄進しています。これは、所願成就の御礼だと伝えられています。
また、忠盛の子清盛も仁平二年(一一五二)五月の頃、三〇〇人の禅侶を嘱請して大般若経六〇〇軸を石面に書写し社頭に奉納したと語られています…。


この大山寺は大山(だいせん)の中腹にあり、地図で見ますとだいたい標高800メートルぐらいのところにあります。正盛は義親との対戦があったのでそれは別として、忠盛や清盛までもが山陰の地のこんな高いところまで足を踏み入れていたとは、ずっと以前は知りませんでした。それが確実に本当なのかどうかはわかりません。僕としては信憑性は薄いように思うのですが…。正盛と忠盛と清盛は、瀬戸内海地域は頻繁に往来しています。伝承地も何ヶ所かあります。
そして鳥取県立図書館に行き、大山寺縁起の写本の読み下し文は読みました。確かにこのように記述されています。これと同じような記述が平家物語のような軍記物語や、玉葉のような確かな史料などに記述されているのかどうかはそこまで調査していませんのでわかりませんが…。


社寺縁起というものは、以前は一般史家には白眼視されていました。しかし大山寺洞明院に古くから秘蔵されている「大山寺縁起」一巻は写本とはいえ、よく鎌倉時代の筆致が偲ばれる逸品であり、味読すべき価値を十二分に秘めているようです。
本堂より下りる石段です。真っ直ぐにそそり立つ杉並木が厳粛な気分にさせます。


先ほどの山門を本堂の方側から出たところで、今度は参道を見降ろしています。紅葉がきれいで京都のような風景ですね。
ここから一直線にまっすぐずっと下って行くと日本海に出ます。


道が一直線なので、矢のように下って来ました。ここは鳥取県大山町の国道9号線、大雀海岸付近です。遠く水平線上にうっすらと島根半島の先端がみえます。
大山寺縁起に見える、源義親が立て籠っていた『蜘戸(くもど)の岩屋』とはいったいどこなのかと以前から思っていましたが、鳥取県立図書館から借りたある歴史本を見てみると、島根半島の東端付近美保関の北の“雲津”という漁村のことでした。そういえば10年以上まえに確かドライブで行ったことがあります。あの辺りは時が止まったような静かで美しい秘境の地でした。
次の休みにそこへ行って写真を撮って、この海岸の写真とともに独立した新たな記事を作ろうかと思いましたが次の作品の計画もあり、勝手で申し訳ありませんが蜘戸の岩屋の風景は自分の記憶に留めておくことにしました。
そして平正盛源義親追討に向かう途中ここを通ったであろう…、うっすらと水平線上に浮かぶ島根半島がここから目に入ったであろう…、そう信じて、ここを後にしました。