大山騒動と僧兵

嘉応二年(一一七〇)四月、大山南光院(なんこういん)の別当明俊(みょうしゅん)は、出雲と伯耆の武士数千騎を率いて中門院(ちゅうもんいん)と西明院(さいみょういん)を攻撃しました。これに対し中門院と西明院の悪僧は逆襲して南光院へ打ち入って放火し、南光院の軍兵もまた中門院や西明院を攻めて火を放ち、大山寺一山三院は瞬く間に兵火につつまれ本堂以下法華堂、常行堂などを一瞬のうちに焼失してしまいました。


合戦は東伯耆の美徳山(みとくさん)にも及びました。それは、南光院に美徳山の多くの僧兵が味方し中門院、西明院を攻撃したためで、これを恨んだ中門院、西明院の両院の僧兵は美徳山を攻撃し、一山ほとんどを焼き払いました。これは大山寺縁起に伝える「嘉応二年の闘争事件」です。
また、美徳山は平安時代から山岳仏教霊場として信仰を集めてきた天台宗の古刹です。


六條天皇は仁安三年二月に退位し、翌三月高倉天皇が即位しました。天皇即位の儀式ののちはじめて大嘗宮で行われる新嘗祭(にいなめさい)を大嘗会(だいじょうえ)とよびますが、この高倉天皇の大嘗会の費用を朝廷は諸国に負担させ、、その命により伯耆国衙は伯耆大山寺からも経費を徴収しようとしたのでした。しかし、寺院というものは無税が原則でありましたから、大嘗会費用の分担は大山寺にとっては納得できないものでした。


伯耆国衙は官使を派遣し宣旨を提示しましたが、大山寺の僧兵らはこれを奪い取るなどして抵抗しました。そこで官使は南光院の別当明俊とむすび命を実行しようとしましたが、中、西の両院はこれを怒り、明俊の房舎を襲って破壊、さらに明俊を殺そうとしたらしいのです。


そもそも僧兵(そうへい)とは、古代から中世にかけて寺院社会に横行した武芸に秀でた僧侶をいい、悪僧ともいわれます。僧兵の台頭は、平氏や源氏の武士団の発祥より古く、摂関時代の道長の頃と思われていますが、実際はもっと古いようです。天元四年(九八一)京都の法性寺の座主を巡り天台の山門の慈覚派と寺門の智証派の門弟が争い結果慈覚派が勝った争いに始まるといわれます。比叡山園城寺(三井寺)、南都の諸大寺などには多数の僧兵が存在していたことが知られています。
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また僧兵といえば義経の家来、弁慶がいます。弁慶ももとはといえば比叡山の僧兵の落ちこぼれだったようです。そして平家物語でも奮戦する僧兵のことがたびたび語られています。平氏は南都の諸大寺との対立を深め治承四年(一一八〇)平重衡を総大将として南都焼き討ちを決行しました。これも僧兵奮戦記の一つでしょう。
白河法皇をはじめ、鳥羽、後白河法皇もこの諸大寺の僧兵に悩まされました。平家物語の中でも、「願立」の項で白河法皇が意のままにならないものは、賀茂河の水と双六の賽と山法師(悪僧、僧兵)であると語られています。


そしてこの大山騒動の事件のあった頃の京都での平家一門はといいますと、ちょうど平清盛太政大臣に任命される頃です。平清盛太政大臣に任命されるのは仁安二年(一一六七)二月十一日、厳島神社に奉納されている般若心経の奥書には二月十三日とあるようです。翌仁安三年(一一六八)二月十一日には出家します。大山騒動事件のはじまりはこの年からです。大山騒動事件は一一六八年から一一七〇年にかけて起きました。また一一六九年三月二十日には、福原に後白河法皇を迎えて、千僧供養(せんそうくよう)を行っています。千僧供養とは多くの僧を請じて行う法会のことです。日本では六五二年に内裏で行われたのが最初で、江戸時代まで断続的に行われました。一一七〇年には七月三日清盛の孫の資盛が摂政基房と乗合事件を起こします。九月二十日には後白河法皇を福原に迎えて宋人との面会の機会を設けています。大山騒動事件は平家一門の歴史のこの頃のことでした。