平清盛の西八条別邸跡と若一神社

この若一(にゃくいち)神社にお参りするのはこの日で三回目になります。画面は京都府下京区にある、西大路通と八条通が交差する交差点です。前方の木の繁みの背後に若一神社はあります。


若一神社の前です。京都の街なかの西大路通のわきにある小さな社です。JR京都線西大路駅から北へ歩いて5分ぐらいでしょうか。その若一とは、熊野権現の第一王子という意味で、熊野に参拝したことのある清盛が勧請したといわれる神社です。主に開運出世のご利益があるそうです。
その当時平氏の拠点は京都六波羅でしたが、清盛はこの若一神社を含む西八条の地に広大な別邸を構えたのでした。その面積は約二万六千坪。西大路駅の北側一帯だったそうです。平安時代四百年間に貴族たちは多くの住宅を営みましたが、そのなかでも最大の邸宅だったそうです。いかに清盛の権勢が巨大なものだったかがわかります。


若一神社平清盛像です。神戸港の清盛像と比べると、厳粛な顔つきです。はたして、平清盛は実際にはどんな顔をしていたのでしょうか…。想像と現実は違うのですが、僕は自分なりに頭のなかで平清盛の顔はイメージしています。この若一神社の清盛像の顔とは少し違いますが…。


清盛様においしい水を賜りました。飲んでみると、都会の中から出ている水とは思えないような、まるで山奥から湧き出た名水のような、まろやかですごくおいしい水でした。この水を飲んで不思議と晴れやかな気分になりました。


そしてこれは平家物語に出てくる祇王(ぎおう)の歌碑です。祇王には悲しい悲話があります。平清盛には時子という正妻がいましたが、他にも何人かの愛人がいました。そのなかでこの祇王という白拍子(しらびょうし)の娘を寵愛していました。そして母のとじと妹の祇女(ぎにょ)にもいっしょに西八条に邸宅を造ってやりお米百石と銭百貫を与えていたのでした。しかし三年後に新たな白拍子の仏御前(ほとけごぜん)が現れ、清盛は心変わりしてしまいます。祇王は若くして世を捨て、尼になって嵯峨の里に庵を造って母と妹とともに余生をおくりました。その後仏御前も後を追って嵯峨の里を訪ね四人一緒に暮らしたということです。
なお、白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて出現した男装の女芸能者のことです。舞をまったり、今様や朗詠を歌ったことも知られています。


この日、宮司の方とお話をすることができました。社務所まえにたくさんお守りが並べられていてその中でひときわ目立った黄色いお守りをひとつ買おうとして窓口から声をおかけしたら、少しお話ができました。宮司さんが言われるにはここは当時(源平の頃)交通の要所だったそうです。西へ向かう道(瀬戸内海地域)と山陰地方への道とが交差する所でいろんな人や物資が流れ込んでくるため、その監視のためにもここに別邸が建てられたそうです。
また当時清盛は日宋貿易を推し進めていたわけですが、九州の太宰府から宋の物資を積み上げ瀬戸内海沿岸を通って京都に持ち込まれていました。それから日本海側の敦賀や小浜といった港からも交易があったそうです。それはある本で読んだことがあるので知っていましたが…。
そしてこれが平清盛自らが植えたと伝えられる楠の木です。若一神社の前、西大路通の道路わきにあります。宮司さんの話しによると、一一六七年に平清盛太政大臣になった時に植えられたということです。この日はいつも以上に精魂込めてこの御神木を拝みました。


若一神社前の歩道です。小さな神社ですが旗がたくさん立てられていて鮮やかですね。


歩道の反対側の北側から南側を眺めたところです。歩道をはさんで右側に清盛手植えの楠の木が立っています。


この神社を含む周辺に平清盛の西八条の別邸がありました。
この日は、宮司さんともお話が出来て大満足の一日でした。