京都白河冷泉通り

京都白河は平安時代後期、伏見区の鳥羽とともに院政の拠点といわれる地域でした。下京区若一神社に参拝したあと、ここまで足を伸ばしてみました。京都の風に吹かれるのは僕にとってはこの上ない喜びです。極上の美酒に酔いしれているようなものです。
これは平安神宮前の鳥居です。最近陽が短くなってきたせいで少し薄暗い感じがしますが…。 この時はもう午後4時を過ぎていました。


鳥居を真下から眺めてみました。巨大ですね。安芸の厳島神社の鳥居とどちらが大きいんでしょうか?


この白河地区は承保二年(一〇七五)に白河上皇御願寺である法勝寺(ほっしょうじ)の造営が開始され、院政の拠点として開発が進行しました。当時の藤原氏氏長者(うじのちょうじゃ)の藤原師実から土地の寄進を受けて白河上皇は寺院の建立に着手したのでした。
続いて堀河天皇の尊勝寺、鳥羽天皇最勝寺、待賢門院の円勝寺、崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺が建立され、六勝寺と総称されました。
前方に平安神宮の応天門が見えてきました。


この通りは二条通りで、今現在は左側には岡崎公園京都会館があり、右側にはみやこめっせや府立図書館がありますが、平安時代末期には、左側に尊勝寺と最勝寺、右側に成勝寺と円勝寺、そして真っ直ぐ行くと法勝寺がありました。なかでも永保三年(一〇八三)に建立された法勝寺の八角九重塔は院政の象徴で、高さが約八十一メートルもあったそうです。今現在わが国最高の東寺の五重塔の高さが約五十五メートルです。どんな威容だったんでしょうか。この画面の前方にそびえ立っていたはずです。清盛もどんなふうに眺めていたのでしょうか…。


ご存じの方もいらっしゃるかも知れませんが、ここで院政について説明いたしますと、院政とは天皇が譲位して上皇として執政する政治形態のことです。院政を行う上皇治天の君(ちてんのきみ)といいますが、治天の君専制化する半面、天皇の地位は弱体化しました。天皇は政治的に無能であるのが望ましかったのです。要するに政治の実権は上皇が握っていたのです。また、譲位した天皇上皇、さらに上皇が出家して法皇となります。このことは、中学高校の頃はわかりませんでした。
平安時代の京都地図を持ってきた僕はその地図を車の中に忘れてしまい、仕方なく自力で六勝寺の石碑を見つけようと白河周辺を歩き回りました。やはり詳細に記された地図がないと広範な地域を歩いて探すのは困難なわけで…。
しかしこの延勝寺の石碑?だけは見つけることができました。みやこめっせの端っこの所にありました。


ずっと巡り歩いて行くと、冷泉通りの看板が現れました。そういえば、九州の博多にも冷泉津があったのではなかったでしょうか。関連性があるのかどうか…、そこまで調べていませんからこれを述べることはできませんが…。
そして、保元四年(一一五九)二月に白河の千体新阿弥陀堂の供養が行われています。この造営は大宰大弍の清盛が請け負ったものです。その阿弥陀堂はどこにあったのでしょうか…。ひょっとすればこの辺りにあったのでしょうか…。


橋の向こうに見えるお堀のようなものは琵琶湖疏水です。


これが冷泉通りです。右側は京都会館です。


そしてこの辺りは平忠盛鳥羽上皇に造進した得長寿院があった所です。前方にかすかに見える交差点を中心とした周辺地域がそのようです。右側は琵琶湖疏水です。


平安神宮の応天門です。小学校の時、平安神宮に親戚同士で旅行に来たことがありました。久しぶりにのぞいてみたい気分になりましたが、夕暮れがせまっており、明日の仕事に支障をきたすといけないのでこれにてお暇いたしました。