従一位、太政大臣

太政大臣とは、律令制太政官の最高の官です。
大宝令では唐の三師・三公にならい、天皇の訓導の官で、適任者がいなければ
欠員でよいという則闕(そっけつ)の官とされる一方で、太政官首席大臣として詔書・論奏や
勅授位記に著名すると規定されました。
定員一人、一品、正従一位相当。
十世紀以後、摂政・関白は太政大臣から離れた独自の地位となり、
太政大臣は名誉職的な存在となりました。


仁安二年(一一六七)二月十一日、
平清盛太政大臣に昇任しました。
その二十五日、清盛は安芸の厳島に出向いています。
これは、所願が成就したことを厳島神社に報告するためのものと思われます。














“ 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ ”


これは柿本人麻呂が歌った歌です。


歌意は、
「近江の湖、夕べの波の打ち寄せる水際の千鳥よ、お前が鳴くと心も打ちなびいて
往古が偲ばれてならない。」



近江大津宮は六六七年に天智天皇によって飛鳥から都が遷されました。
しかし、六七二年の壬申の乱における近江朝廷側の敗北によって廃絶しました。
わずか五年四ヶ月でした。
その人影のなくなった大津宮を偲んで詠んだ歌のようです。


天智天皇の皇子、大友皇子は六七一年に太政大臣に任じられました。
この年、病の重くなった天皇は後事を皇太弟の大海人皇子(天武天皇)に託そうとしましたが、
大海人はこれを辞退しました。
天皇の死後、大友皇子は近江朝の中心として、吉野に移った大海人を警戒し対立したが、
翌年の壬申の乱で大海人の軍に敗れ山前で自害、その首は不破(岐阜県不破郡)の大海人皇子
軍営に運ばれました。大友皇子が即位したかどうかは明らかではありませんが、
大日本史」は皇子の即位を認めて大友天皇本紀をたて、一八七〇年(明治三)明治天皇から
弘文天皇と追諡されました。
太政大臣任命はこの大友皇子が初例です。


清盛の太政大臣任命は、これより四九六年後になるわけです。



自分の心を見るに、
なかなか奈良時代から抜け出せなくなってしまいました。
それは多分、大学時代四年間を奈良で過ごしたことが大きいでしょうね。