恭仁京跡

国道一六三号線を何度通ったことでしょう。
月ヶ瀬村や伊賀方面へ、よく遊びに行ったものです。



ハンドルを左に切ってほんの三分ほどでそこへ行けるのに、
当時はそんなものは知っているはずもなく、いつも素通りしていました。



この周辺、ほんとにのどかなところでした。
これは去年の四月に奈良を訪れた時に、恭仁京跡へ立ち寄ってみた時のものです。

 


“考えるところあって今月末からしばらく関東(鈴鹿関の東)に行幸しようと思う。
このようなことをしている場合ではないけれども、しかたのないことである。
将軍(大野東人)はこのことを知っても驚き怪しむことのないように”


藤原広嗣の乱のまだ終わらぬさなかの七四〇年十月二十六日、聖武天皇はこの内容の勅を、
広嗣追討に当っている大野東人に送った後、東国行幸の旅に出てしまいます。

ここからの、聖武天皇の彷徨五年をどう推理したらいいのでしょう。
素人の自分には理解できません。



伊勢詣からはじまった聖武天皇の彷徨は、「壬申の乱」で大海人皇子が通った進軍ルートと
ほぼ重なるようです。聖武の曾祖父である大海人皇子を自身に投影させたのでしょうか。
ひとつの説としてこのように言われています。


伊勢詣の後、伊勢湾岸を北上し不破頓宮において恭仁京遷都の決断を下しました。
その後琵琶湖東岸を通って十二月十五日に恭仁京に入っています。
なぜ伊勢国行幸の帰路を、いったん平城へ戻らずそのまま新京へ入ってしまったのか。
ここから後は紫香楽宮難波宮と、次々と都を移し替えて行きます。


七四三年十月、紫香楽宮で大仏鋳造の詔が下されました。
造営中の恭仁京の造営はここに停止されました。
続日本紀』は、七四三年の末までに恭仁京造営が未完成のまま中止されたことを述べています。




大伴家持恭仁京においてこんな歌を歌っています。



言問(ことと)はぬ   木すらあぢさゐ
  諸弟(もろと)らが
    練りのむらとに   詐(あざむ)かれけり


この歌は、恭仁京にいる家持が奈良の坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌です。
坂上大嬢は家持とは従兄であり、そして正妻となる人です。
歌意は省略します。