平家伝承地、広島県安浦町日ノ浦

ここは広島県安浦町の三津口湾の南側にある日ノ浦という小さな入り江です。何の変哲もない瀬戸内海の片隅の小さな入り江です。平家落人が山陽道から四国へ渡る拠点としてここを設定したことは間違いないと推測されている所です。
この写真は2年前の10月に訪れた時に撮った生写真をもう一度写しなおしたものです。水面に浮かぶ筏は牡蠣の養殖だと思われます。


壇ノ浦から落ちのびて山陽道から四国へ渡ろうとした平家落人が、この安浦町の日の浦から対岸の愛媛県今治を目指していたようです。なぜ今治を目指したかといいますと、平家と深い関わりのあった新居氏の中の高市氏の拠点だったからであります。高市氏は新居氏の分流です。
そして、安徳帝を擁した平家落人主流が、壇ノ浦で敗北したあとは高知県の横倉山へ潜行することが屋島にいた一年間の間に決められていたことのようです。横倉山は高知県越知町(おちちょう)にあります。
また、日ノ浦とは“帝のおわすところ”という意味で、帝のことを日ノ御子といった表現法によります。平家落人が安徳帝を擁した主流の一行に合流するために、その暗号とした“日ノ浦”を逃避経路の要所に配備したようです。香川県を除く四国各県には日ノ浦が三十か所ほどもあるようです。瀬戸内海沿岸で本州側にあるのはこの安浦町と、兵庫県相生市だけです。
日ノ浦は当時の安芸国の中心地点でもあり、四国へ渡るのにも最も条件のよい場所といわれます。


安芸国から、四国へ上陸した落人主流一行への連絡場所として選ばれたのが安浦町の日ノ浦であり、それを采配したのは悪七兵衛(あくしちびょうえ)と称された景清(かげきよ)だと考えられています。景清は藤原景清といい、通称は悪七兵衛といわれます。平氏累代の家人でした。安浦町の東隣り安芸津町にはいくつもの景清伝説が残っているようです。
平家落人はここから四国を目指したのでした。