平家伝承地2、広島県竹原市忠海

広島県竹原市の海辺の静かな街、忠海(ただのうみ)は平忠盛の忠を冠してつけられたものだといわれています。
これは、前回の記事で述べました日ノ浦を訪れた帰りにここに立ち寄った時のものです。いずれも生写真をもう一度写しなおしたものです。
忠盛は何度も瀬戸内海の海賊追捕をして褒賞されましたが、その賞としてこの地一帯を賜ったのでした。
八百年以上の時を越えて、こうして今現在の駅の名前に忠の字が刻まれているのはすごいです。


忠海の駅前です。家の背後にところどころごつごつとした岩肌があらわになった山が見えています。忠盛の目にも絶対この山が入っているはずだと思い、脳裏にしっかり焼きつけました。


瀬戸内海地域の特徴なのでしょうか、恐ろしく静かでした。


忠盛がこの地を賜った時に住民たちはこれを祝して、それまでは「乃美の浦」と呼んでいたこの地に“忠”の字を冠して「忠乃美の浦」と称したといいます。一説には忠盛自身が忠の字を冠したともいい、その後「乃美」を「海」と改め、「忠海の浦」というようになったともいいます。
一度写した写真をもう一度写しなおしたので霞んでしまっていますが…。


そして忠盛没後は清盛の権勢下にありましたが、忠海町の東端にある二窓浦の奥の山裾に、清盛が彫刻した地蔵石仏があるそうです。一説には空海作だともいわれますが…。それを見つけようと街の奥のほうに歩いて行きましたが結局見つけることはできませんでした。悔やまれてなりません。誰か人に尋ねればよかったんですが。
二窓浦は平家所領の頃は深い入江になっていて、潮待ちの船泊りの地だったのです。清盛も厳島詣でなど瀬戸内海を航行するときはこの二窓浦の入江を船泊りに利用していたようです。その潮待ちの間に、岸辺にある岩屋に地蔵石仏を刻んで航行の無事を祈ったのでありましょう。


安芸国を領した長い年月の間には、土地の人たちとの交流も緊密になり、平家に従う者も次々と現れ、平家与党で固めた平家の地盤となっていたために、忠盛の“忠”の字を頭につけた地名を存続させることができたのです。