越後の龍、上杉謙信への旅

心配した天候でしたが、意外にも、越後は少し晴れ間を見せてくれました。

越後への道のりの最終地点、北陸自動車道上越出口が見えた時、込み上げました。

平清盛とともに、僕が日本歴史上で崇拝する人物がもう一人いました。

平氏滅亡の壇ノ浦の戦いの年から三四五年後にその人は生まれます。

戦の天才、義将と言われた越後の龍、上杉謙信です。

再びこの地を踏むことができた喜びをかみしめながら春日山を上って行きました。

ここは多くの方がブログで紹介していますので、今更言うまでもありませんが。


この奥には、春日山神社があります。


本丸へは、ここから上って行きます。


二の丸阯の端っこに古い松の巨木が一本立っていました。その時、上からおじいさんがジョギングしながら下りて来て声をかけてくれました。地元の方なんでしょう。そのおじいさんが言われるにはこの松は樹齢五百五十年で、謙信の時代から立っているということです。


近づいてみました。幾多の試練を乗り越えて来たのでしょう。この木だけが、謙信の生きた時代を知っているかのようにも見えました。


そして山頂へ上り、これが本丸阯です。
生涯休む間もなく西へ東へと、戦の遠征をしていた謙信。ここで一息つくのはつかの間のことだったでしょう。


人格的に仏僧と武将の狭間にあった謙信。本来謙信は平和を願っていました。しかし戦になれば天才的な威力を発揮しました。さぞ、苦悩の人生だったことと思います。謙信に対しては、軽率な言葉は使いたくありません。


そして振り向けば、頸城平野が見渡せます。


もう何も言葉はいりません。感無量です。
謙信がここに立って眺めたこの景色を強く強く脳裏に焼きつけました。そうすることで、少しでも謙信に近づけたような気がしたのです。


本丸から少し下った所に毘沙門堂がありました。謙信が出陣前にここに籠って戦勝祈願をしました。
これは建て替えられたものですが、ここにあったようです。


さらに下ると直江屋敷阯がありました。


もう少し下って最初のパーキングエリア近くには春日山神社がありました。謙信が祭神です。


上越市内のビジネスホテルに一泊し、翌日の朝、林泉寺を訪れました。ここは謙信が七歳から十四歳までの七年間、名僧天室光育のもとで修行生活をしたところです。なお、この寺は長尾氏の菩提寺でもあります。


寺内の謙信公墓所の入り口です。


そしてこれが謙信の墓です。この墓に会いたかったのです。前回訪れた時は真冬で、積雪のせいでこの墓を見つけられませんでした。ほんの近くまで来ていたはずです。
“いつか米沢にも行きますから” と、合掌しました。


謙信は、戦の回数も戦国武将のなかでもおそらく一位だと思います。しかもほとんど負けがありません。

戦国武将というのは、他国を侵略し、自国の領土を広げ、さらには上洛して天下を取るというのが最終的な夢でした。しかし謙信にはそういった私利私欲がありませんでした。戦はすべて他からの要請を受けてのものでした。

戦国の世を疾風の如く駆け抜けた謙信、神として崇拝してやみません。

謙信には、生きてお会いしたかったです。

我が師匠、謙信の辞世の句、“四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒”



以上、僕の心の風景です。

まことに勝手で申し訳ありませんが、休止させて頂きます。

ひとり、勉強させて下さい。勉強したいのです。

教養を高めることができましたら、また戻って来るかもしれません。近未来に戻って来る可能性もあります。

ここまでありがとうございました。