兵庫県御崎村、門脇宰相平教盛の墓

となり町の親戚に用があったついでに、今度こそは…と思い餘部の海辺の信号を左に折れ、断崖伝いに再度御崎を訪れてみました。冬型の天候なのか、朝からあられまじりの冷たい雨と風が吹きつけていました。海は荒れて大シケ、空は鉛色。冬の顔を見せつけていました。


御崎は道が迷路のようになっていて、どこへ行けば目指す平内神社と、平教盛の墓を見つけることができるのか、いつも見放されていました。家に帰ってからあれこれ考えた結果、残された道はあそこしかない、あそこに間違いないと、勘も働かせながら、ある民家の脇道を上へ上って行きました。やはり思った通りでした。


ここから急いで駆け上りました。


社殿は質素なものです。一礼をし。


ここで毎年1月28日に『百手の儀式』(ももてのぎしき)といって、平家再興の想いを込め、源氏に見立てた的を目がけて101本の矢を射る新年の武芸始めの儀式として代々受け継がれている伝統行事が行われます。画面下に少し見えますが、土俵もありました。ほかにもいろいろ行事があるのでしょうか。


鳥居の後ろにはこのように銀杏の大木がありました。そしてこの鳥居を出ると、さっき来た道を向こうのほうからこの御崎の人なのでしょう、農作業姿のおばあさんが笑顔で近づいてきました。べつにあやしんでいるふうでもなかったので“平内神社はこれですか”と快く尋ねることができました。やはりそうでした。その後、おばあさんは境内のそうじをされていました。


そして平内神社のすぐ隣に、以前からずっとずっと探し求めていた平教盛の墓がありました。平内神社の境内に上る前に目に入っていましたのでもうそれと確信しました。右に見える建物が平内神社です。


やっとやっと見つけることが出来た平教盛の墓。門脇殿、門脇中納言といわれていた平教盛。京都六波羅から源氏に追われて都落ちをし、西へ西へと逃れて行き、歴史上では壇ノ浦で没したことになっていますが、この御崎の伝説では、壇ノ浦から密かに舟をこぎ出して日本海を漂流し、この地へ流れ着いたとされています。


教盛の墓石の左横には小宰相局の墓がありました。教盛とともにこの地へ落ちて来たのです。小宰相局はさらにここから、以前にも紹介しました新温泉町の大味村に隠れ潜んだといわれています。また、平内神社ですが、落人の一行の中に伊賀平内左衛門家長(いがへいないざえもんいえなが)がいました。神社は家長を祀ったもので、その「平内」という名は平内左衛門家長から生まれたもののようです。家長は平家一門の有力な家人で、伊賀国服部(はっとり)を本貫としていました。


また家長はここから香美町の畑村に移ったという伝説もあります。その証拠か畑村をはじめ、兵庫県北部には伊賀を名乗る人達も多く住んでいらっしゃいます。もともと平氏は伊賀・伊勢地方に住んでいたので、名前の由来は遠くそこから来ているのだと思います。


平内神社の前はこのように土地が少し平らになっています。落人一行の中の何人かはここでも生活をしていたのかと、自分なりに思ったりしました。ここからほんの少し下りると御崎集落がかたまっています。御崎は海に落ち込んでいる山の斜面にあります。


日本海を漂流した一行七人が御崎のある伊笹岬の沖にさしかかった時、一条の煙が見えたといいます。その煙をたよりに舟をこぎ寄せ、崖をよじ登って行くと、小さな庵に森本浄実坊(もりもとじょうざねぼう)という修験者がいて、小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され、飢えをしのいだといいます。浄実坊の勧めに従って土着し、居を構え、平家再興を計ったと伝えられています。
修験者というのは、または山伏ともいわれ、頭巾を被り、柿色の鈴懸(すずかけ)と結袈裟(ゆいげさ)をまとい、笈(おい)を背負って法螺(ほら)を吹くなど、独特のいでたちで活動したといわれます。七世紀末、大和国葛城山に住した呪術者、役小角(えんのおずの)を祖師としているようです。
森本浄実坊とはいかなる人物だったのか。門脇宰相平教盛と門脇を名乗る人達とは。さらには伊賀平内左衛門家長と伊賀を名乗る人達は。どこかに真実を知る手掛かりはないかと今も思い続けています。
御崎からの眺めです。時刻は午後12時半過ぎ。冬の日本海はいつもこういう顔をしています。