平家の落人村6、兵庫県横行村

この村の平家悲話も興味深いものがあります。ここ横行(よこゆき)村は兵庫県養父市大屋町の山あいの狭い谷間の奥にあります。
村に入るしょっぱな、このように村の中央部からかなり離れて二軒孤立して家が建っています。


ここから少し行くと、また二軒孤立した家が現れます。赤い屋根が非常に印象的です…。


何十年かまえは、家としての営みがあったようですが、今は人が住んでいるようには思えないのですが…。なんとも寂れた物悲しい感じがします。その昔の平家の憂いを、かもし出しているように見えます。
赤い屋根がなにかとても…。 そういえば平家の旗色は…。

この、横行の伝説は、 “ 壇ノ浦の戦いで敗れた平家の一党が、ある藤原氏の姫を連れて逃げた。揖保川づたいに山奥に逃げ、播州平野と但馬との堺の若杉峠を越え、但馬の若杉に至った。若杉には藤原という家が二軒あり、藤原○○さんという人の家が、平家が峠を下りて一泊した家である。その当時はまだ姓がなかったので、藤原の姓とある形見を置いて、また逃げて行った。そして栗の下(横行の谷間に入る入口の部落)に出、そこから炭焼きに行く人が通る細い道を通って横行の谷に入った。途中馬放橋といって、橋の下に三十畳くらいの平らな岩がある。馬は丸木橋を渡ることはできないので、そこで乗って来た馬を放した。その別れの時に、馬が地団駄を踏んだ蹄の跡が岩に残っている。
横行に入って、千畳岩の上に家を構えた。そこを平家ヶ城という。そして絶えず追っ手の源氏を警戒して、六人の家来に現在の横行部落の所で見張らしておいた。そこには筵旗を立てておいて、それが倒れたら源氏が攻めて来たしるしということにしてあった。ところがある時、風に吹かれて旗がばったり倒れてしまった。これを見た平家ヶ城の姫君は、今は最後と「姫ヶ淵」に身を投じ、侍者の多くも自刃して果て、生き残った六人の武士が平坦地を求めて居を構えたという。六軒屋敷の俗称は、今も岸谷口にある。 ” と、このように言われています。
「姫ヶ淵」というのは姫君が身を投じたため、そう言われるようになったのだと思います。その「姫ヶ淵」と、「平家ヶ城」はいったいどこにあるのかと思い、再びここを訪れたのでした。


村の入り口付近の山の斜面に神社があったので、もしかしたらそこに「平家ヶ城」の跡があるかもしれないと思い、社殿のところまで登ってみましたが、どうやら違うようでした。秋ですので熊が出たら恐ろしいので、すぐに下りましたが…。


村の中央付近の景観です。どこに「平家ヶ城」があるのか周囲の山々を見渡しましたが、なんの案内標識もなく、どこから登ったらそれがあるのか見当がつきませんでした。


村の中央にある公民館です。現在使われているのかどうかわかりませんが。


村の家屋のすき間からです。いかにもそれらしい雰囲気ですね。


ほんとうにいったい「姫ヶ淵」はどこなのでしょう…。 伝説は事実なのでしょうか…。 真実が知りたいのです。




村のいちばん奥のさらに少し行ったところにそれらしい感じの淵がありましたが、しかしこれは砂防ダムが築かれているため、いま一つ信用できませんでした。


結局この日、「姫ヶ淵」と「平家ヶ城」を見つけることはできませんでした。いったい、それはどこだったのでしょうか…。そして生き残った六人の武士が居を構えたという六軒屋敷も見つけることができませんでした。今後の自分の課題です。
見つけれなかったのが残念で悔いを残して村をあとにしました。