穴見郷、そして出石神社

池麻呂、糟麻呂、藤麻呂、田吉女、小当女を追って
その故郷へ



これは豊岡盆地の真ん中を突き抜けた後、狭い山峡を流れて日本海に注ぐ円山川
自分からすれば、ちょっとした大河に見えてしまう。
梅雨の明けた夏空の下では至る所から太陽光線や紫外線などが反射して目に飛び込んでくる。
それほどに青い。



穴見郷はこの円山川の少し上流に遡った豊岡盆地のはずれにあるようです。


七四五年、平城京で大仏造立場所に選ばれたのは、外京の東の山懐にあった
光明寺(金鐘寺)であった。


歴史の皮肉でありましょうか古文書自体が残る可能性が少ないなかで、
けっして歴史の表舞台にのぼることのない但馬の奴婢が、逃亡したことの故をもって
正倉院文書』のなかにその名を残しています。


天平勝宝元年(七四九)九月、聖武天皇東大寺の維持・管理のために諸国に命じて
容貌端正な奴婢を集めさせています。
但馬国司は、国内の出石・朝来・二方の各郡から奴(男)三名と婢(女)二名の計五名を、
合計稲四五五〇束で買い求めています。
それが、池麻呂、糟麻呂(かすまろ)、藤麻呂、田吉女(たきちめ)、小当女(こまさめ)です。



池麻呂  二十四歳  売主  出石郡少坂郷戸主  従七位下宗賀部乳主

糟麻呂  二十四歳  売主  出石郡穴見郷戸主  大生直山方

藤麻呂  十五歳   売主  出石郡穴見郷戸主  土師部美波賀志  

田吉女  十九歳   売主  朝来郡桑市郷戸主  赤染部大野

小当女  十七歳   売主  波太郷戸主     采女直真嶋の戸采女直玉手女


各地の有力農民のもとで働いていた者たちですが、当時の馬の値の三倍あまりとされています。

彼らは国衙に集められ、朝集使という役人に連れられて、同二年正月に奈良の都へと
不安な旅立ちをしたのでした。
奴婢とはいうものの、旧主のもとではある程度の自由が与えられ、それなりの生活を維持していたと
推察されます。ところが、東大寺造営の諸事を司る役所(造東大寺司)にあっては、彼ら奴婢は一種の
消耗品でしかありませんでした。




東大寺に送られた奴婢のうち、奴二人は早くも二月十六日に但馬の旧主のもとに逃げ帰っています。
池麻呂と糟麻呂はいずれも出石郡小坂郷と穴見郷の出身で、いわば隣のムラという連帯意識もあった
のでしょう、手に手をとって旧主のもとにたどり着いています。しかし、国司の手で捕えられ三月六日には
もとの主人に付き添われて奈良まで届けられました。
藤麻呂は十五歳、単独で旧主の土師部美波賀志のところへ逃げ帰って来たがすぐに捕えられ、
旧主に護送されて寺側に引き渡されています。
しかし、その後も二人組はまた逃亡をはかり、一人は旧主のもとに、他の一人は消息を絶ちます。
このようにして、結果的に但馬から送られた奴は三人とも脱走を試み、一人が行方不明、
一人は造東大寺司側が手に負えず生国へ返送、一人はその後も東大寺の奴としてとどまっています。


いっぽう、婢二名の動向はといえば、一名は記録がないので不明である。
十七歳の小当女という婢は、東大寺から法華寺に転売され、他国の婢とともに
脱走したものの、これまた苦労の甲斐なく奈良に連れ戻されてしまっています。

このように、奴婢たちが遠い道のりを逃亡し、また捕えられ連れ戻されることを承知で再度の
逃避行をくわだてる者がいる事実は、若い奴婢が望郷の念にかられたということ以上に、
奈良での使役がいかに過酷であったかの証拠なのでしょう。
“青丹よし 奈良の都は… ”とうたわれた平城京は、こうした名もない奴婢や下級役人たちの
悲しみと苦しみのうえに咲いた栄華だったのです。


糟麻呂と藤麻呂の住んでいた穴見郷は、だいたい画面の周辺地域と思われます。





さて、同じ記事の中にあるのですが、本日はこれより話題を変えます。


穴見郷のすぐ近く、いや、ひょっとすれば同じ郷域に入るのかも知れません。
くわしく調べていませんのでわかりませんが、付近に出石神社があります。
ついでに立ち寄ってみました。




出石神社は、但馬一の宮神社として但馬開発の祖神、天日槍(あめのひぼこ)と八種の宝が祀られています。
古くは、『古事記』『日本書紀』にも名を連ねる山陰有数の大社です。

朱塗りの色がほんのり京都の八坂神社や平安神宮を思わせますね。




真夏の炎天下では、陽の光りがいろんな角度からこだましてくるようです…。





天日槍は新羅国の王子といわれます。
日本の天皇の徳を慕って垂仁天皇三年(紀元前二七)舟に乗って播磨国宍粟邑(しさわのむら)にやって
きました。天皇の使者に、気に入った土地がほしいと申し出て諸国を廻ります。
菟道河(うじがわ)━北近江の吾名邑(あなのむら)━若狭━但馬の順に巡って、出石の人太耳

(ふとみみ)の女麻多烏(またお)を妻にする…
とあります(『日本書紀』)。



天日槍は、当時入江湖だった但馬地方を、瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、
耕地にしたと伝えられています。


来てみて思ったのですが、本当に端正な造りの社殿です。




これは昭和八年に出石川改修に伴い鳥居橋の橋脚の工事中、地中から発見された
平安朝の頃の鳥居の遺物です。
平安朝当時は、但馬の国司や都の人たちが国府に着くと次々にこの鳥居をくぐって出石神社に参向したようです。



この日は本当に暑い一日でした。
前半のお話にもどりますが、古代というのは華やかな感じがしますね。
仏教の伝来、万葉集古事記日本書紀…の編纂、都城建設、唐文化の輸入…など。
しかし、優雅で贅沢な暮しをおくっていたのは一部の皇族や上級貴族たちだけだったのでしょう。
今現代から見ても律令国家の社会は驚くばかりに徹底されています。
一般庶民や下級官人たちは相当な税負担に苦しんで、貧しい生活をしていたと思います。
池麻呂、糟麻呂、藤麻呂、田吉女、小当女の話しは平城京の影の部分を見たようですね。