城崎温泉の歴史 6

“山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、
その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた…。”

これは、名作『城の崎にて』の冒頭です。
白樺派の文豪、志賀直哉が最初に城崎を訪れたのは大正二年であった。



その年の八月十五日に東京で電車に跳ね飛ばされて怪我をし、
幸いに一命をとりとめたが、その後養生に、かねて効能があると聞いていた城崎温泉
はるばる一人でやってきた。その日は十月十八日で、水害の直後だったらしいが、
水の浸かなかった三木屋に約三週間滞在して、十一月七日当地を去っている。



『城の崎にて』は、城崎での実話に基づき、小動物を素材に澄み切った死生観をつづった
短編の心境小説である。
この時の体験は翌年『いのち』という題で一応文章化されているが、
その草稿が『城の崎にて』という作品に昇華するためには、さらに三年近い日子を要したわけで、
大正六年五月発行の『白樺』に発表された。



直哉が滞在中の動静は、その時の日記に簡単に記されているが、毎日入湯が第一で、
長編作の草稿の執筆や読書、それに気晴らしの散歩や玉突き、ときには劇場に
義太夫を聞きに行ったり、茶屋で芸者の唄を聞いたりして過ごしている。

そして十一月七日午後当地を発って姫路で一泊、尾道にむかっている。


直哉は城崎が気にいったようで、その後も何回か訪れているようです。



志賀直哉文学碑建設に骨折った故鳥谷武一(当時の観光協会会長)は、
志賀直哉から次のような賞め言葉を聞いている。

城崎温泉はよく澄んで湯治によく、周囲の山々は緑で美しい。
街の中はきれいなせせらぎの川が流れ、東山から見た円山川のひろびろと淀んだ流れは
全国にも稀である。また近くには青く澄み切った美しい海岸がある。
おいしい日本海の肴を毎日食膳に出して客を楽しませてくれるし、
城崎町の人の心は暖かく、木造りの建物とよく調和してうれしかった。
自分が湯治していた頃の城崎は、ほんとうによい温泉地であった。いつまでもそうあってほしい。”



近代になってから、「文学の古里」「名作の舞台」として城崎の名を高からしめたのは、
志賀直哉の『城の崎にて』でした。この作品は名分・名作としての評価が高く
戦前・戦後を通じて中等教育の教科書にもっとも多く採用されています。
そうしたことから期せずして城崎を有名にしたのであって、志賀直哉はいわば
城崎の大恩人なのです。



子供の頃、列車で城崎駅を通る時、いつも大勢の客が乗り降りしていたのを憶えています。
いつもいつも活気に満ちていました。
“きのさき”という響きは、同じ郷土の中にありながら、遠い異国を思わせるような
情緒ある響きでありました。
叔父が志賀直哉のことをよく語っていたこともあり、自然と親近感を持っていました。
自分の郷土のなかにある城崎をこんなにも有名にしてくれた志賀直哉を自分も尊敬しています。

下の写真は、奈良市高畑町にある“高畑サロン”と呼ばれた志賀直哉旧居です。
三月に奈良を訪れた時のものです。
大学時代にも一度訪れていました。
昭和四年から九年間を志賀直哉はここで過ごしたようです。
あの『暗夜行路』はここで完成しました。