城崎温泉の歴史 7

大正十四年五月二十三日に発生した北但大地震によって、
城崎温泉はほぼ完全に焼き尽くされました。
旅館や民家、商店など人の手が加わったものは灰になったか破壊されました。
宿代が一日一円の時代に、被害総額は千二百万円を越えていたそうです。

豊岡出張所の観測記録によると、午前十一時九分、震度6
当時は震度6が最高の地震レベルだったようです。



その瓦礫と化した街を季節外れのコートに地下足袋姿、首から短いメガホンを
ぶらさげた奇妙な格好の男が走り回っていました。
この男は、激震襲来と同時にまず城崎小学校に飛び、児童と職員を励ました足で
六つの外湯の温度を順番に調べて歩き「城崎町は大丈夫だ。この湯の湧き出るかぎり城崎町は発展するのだ」
と確信を持ったのでした。
地震前年の十三年十月、町長に就任した西村佐兵衛(「西村屋」)でした。
城崎の復興の歴史はそのまま西村の足跡と重なります。
彼は震災直後から単なる復旧にとどまらない積極的な城崎温泉の復興構想をねりました。
西村町長の復興路線は、共同浴場の再建を中心として温泉都市を再興するため、
公共事業を積極的に実行しようとするものであり、そのための資金としておもに
政府から無利息借入金や義捐金などをしようしました。兵庫県当局も西村町長の
復興構想をもとに、県庁の技術者が復興計画を具体的に立案していきました。




そしてこれが西村町長の銅像です。
すこし昔に、自分の郷土、但馬にもこういう震災があったのですね。
子供のころに、家族や近所の人にちらほらとは聞いていましたが、
くわしく調べるとこのようなことだったのです。