在原行平の歌碑

  たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今かへりこむ


これは、『小倉百人一首』のなかに収められている有名な歌です。
前回の記事でも、去年の因幡国府の記事でも紹介しました。
大伴家持歌碑のところの道路をはさんで反対側にあります。
斉衡二年(八五九)正月、因幡の国守に任ぜられた在原行平が、京を出発するとき、親しい知人たちとの別れの宴で歌ったとされています。
しかしこれには異説があり、地元因幡では愛する女性に贈った歌としています。
行平は因幡に赴任する途中、兵庫県須磨の浜で汐くみをしていた「松風」(まつかぜ)と「村雨」(むらさめ)の二人の姉妹を見初め、二人を伴って因幡へやってきました。それから四年間、姉妹から心のこもった世話をしてもらい、行平と姉妹の間には愛が芽生えていました。
やがて行平は任期が終わって上京することになりましたが、姉妹をつれて行くことができず、悲しい別れの時を迎えました。
このとき、行平が姉妹に詠み与えたのがこの一首だといいます。
そしてこれと同じような悲恋物語が須磨の浜にも伝えられ、それは謡曲『松風』として知られています。

在原行平は、『伊勢物語』で有名な在原業平の兄ですが、同母の兄弟ではありません。
父は同じ阿保親王ですが、業平の母が伊都内親王であるのに対して、行平の母は阿保親王が九州に下った若いころの土地の女性だったのではないか、とみられています。
行平は弘仁九年(八一八)に生まれ、寛平五年(八九三)、七十五歳で亡くなっています。
業平が女性遍歴の多い色男として知られているのに対して、行平は努力家であり、良吏として参議・中納言民部卿を務め、正三位にまで昇っています。
古今和歌集』と『新撰和歌集』にそれぞれ四首の歌を残しており、最古の歌合『在民部卿家歌合』の主催者としても知られています。