三月三日、春の雪に降られて

二月は、あたたかく好天の日が続きましたが、このまま春に向かうのはやはり甘く、天は許してくれませんでした。思った通り、彼岸の頃までは寒さがぶり返すことがあります。


前回の記事と同じく、雪の降りしきる因幡国府となりましたが、家持が万葉集最後の歌を詠んだ時の情景を、再度想像していただければと思います。


因幡国庁後殿跡です。



正殿跡です。



 この因幡国庁跡、岩美郡国府町で農業構造改善事業による圃場整備事業が計画されたのにともなって、県教育委員会は昭和四十七年度(一九七二)から五十四年度(一九七九)にかけて、因幡国庁跡と国分寺跡、および尼寺跡の調査を実施しました。
 その結果、国庁跡は国府町中郷(ちゅうごう)字瀬戸田に東西百五十メートル、南北二百十三メートルの広さをもち、東西・南の三方を溝(後に石塁)で囲まれた一区画が明らかになり、南面する国庁跡と推定されるに至りました。
 そして昭和五十三年(一九七八)八月には、『因幡国庁跡』として国の史跡に指定されました。


 全国には六十八の国府があり、そのうち国府跡の調査が行われたのは約四十国府
それも部分的な調査が多く、ある程度全貌をつかみ得た国府は、近江・周防・長門・出雲・伯耆・但馬・美作・下野・肥前筑後豊前因幡など、十例あまりを数えるに過ぎません。



家持の歌碑です。



飛鳥、奈良、平安時代初期というのはちょうど中国の唐の時代に重なります。
日本が唐に憧れた時代なのでした。
微妙な関係にあった孝謙天皇道鏡大伴家持とほぼ同世代です。同じ時代を生きました。
天平”、  それは聖武天皇の代の年号です。
天然痘の流行や藤原広嗣の乱など、決して平穏な時代ではなかったようですが、この年号の響きに、僕は憧れます。