悠紀の国

悠紀(ゆき)の国は、大嘗祭にあたり、悠紀殿(ゆきでん)での夕御饌(ゆうみけ)として供進するための新穀を奉るように定められた国のこと。


悠紀殿は、大嘗祭に際して造営される大嘗宮のうち、東方に設置される殿舎です。大嘗宮の建設地は、古くは大極殿または紫宸殿の前とされ、造営前に地鎮祭を、完成後に大殿祭を行っていました。



三月に入ったとはいえ、殴りつけるような冷たい風が吹いており…。
三月の風に…
   三月の風に…


律令制の下で因幡国が注目されるのは、天皇の即位後に行われる大嘗祭の際、新穀を献上する『悠紀の国』と『主基(すき)の国』に三回も指定されたことである。
文武天皇の二年(六九八)以降、奈良時代から平安時代にかけて、『悠紀の国』と『主基の国』の指定は全国で合計三十回を数えているが、このうち因幡では、持統五年(六九一)と天平宝字元年(七四九)に『悠紀の国』に、宝亀二年(七七一)には『主基の国』に、それぞれ定められた。


『悠紀の国』と『主基の国』に定められると、収穫したばかりの新穀を献上して天皇の即位を寿ぐことになっているが、そのことは指定された国にとっては大変栄誉なことで、国をあげて天皇への奉仕に努めたといわれています。




平安時代の仁和四年(八八八)以降、悠紀国は近江に、主基国は丹波・播磨・備中・に固定するのですが、元慶八年(八八四)までは、播磨が五回、美濃・備前が四回、伊勢・因幡・参河が三回、備中・遠江・美作・越前・但馬・丹波が二回、近江・尾張が一回となっています。因幡の三回の指定は日本海側の国としては最も多く、朝廷にとって、この因幡は山陰地方を支配するための重要な拠点として意識されていたのではないでしょうか。



3月9日、
僕の好きな歌があるので、今日、更新しました。
悠紀の国より。