伯耆国庁法華寺畑遺跡

 旅人は神亀四年(七二七)には、遠の朝廷(とおのみかど)といわれた九州の大宰師に左遷された。
このとき、幼い家持も一緒に九州へ下ったようです。
 旅人にとってこの地で最も大きな打撃だったのは、愛する妻の大伴郎女を病気で亡くしたことだったのです。

 
 “世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり”

 
 旅人の深い悲しみと絶望感を歌ったもです。


このころから、筑前守の山上憶良、太宰少弍の小野老、造筑紫観世音寺別当の沙弥満誓(しゃみのまんせい)らとの交友が始まり、さらに都からやってきた異母妹の大伴坂上郎女と歌を詠み交わす日々が続きました。

大伴旅人… 奈良前期の公卿で歌人でもある。そして大伴安麻呂の子であり家持の父である。

なにげなくふと高校時代の三省堂の日本史の教科書をめくってみると、全ページの前半のある個所に、伯耆国府のことが書かれていたのでこの地へ来てみました。
歴史を好きになろうと何度か試みていたあの頃…
前方では少年たちがサッカーをしていました。
おそらく高校生ではないかと思われます。近くには農業高校があります。


ここは伯耆国庁域の中の法華寺畑遺跡です。国庁跡はここから少し歩いたところにあるようです。しかしここも国庁の中の役所の跡なのです。また、国分尼寺跡の可能性もあるようです。
四十五人の伯耆守の中で最も注目されるのは、霊亀二年(七一六)に任官した山上憶良です。
山上憶良は、万葉の歌人としてあまりにも有名な人物。
斎明天皇の六年(六六〇)ごろの生まれと推定されています。
また、“憶良”という名が日本人離れしていることなどから、朝鮮半島からの渡来人ではないかという説もあるようです。


憶良の歌の大部分は、神亀三年(七二六)ごろ筑前守として九州に赴任した以降のもの。
活発な作歌活動は、憶良と相前後して大宰府の長官(師)に着任した大伴旅人との交流の結果生まれたといわれています。
旅人の子、家持も万葉の歌人として有名な人物ですが、その歌は憶良の影響を強く受けているといいます。



以前、因幡万葉歴史館に行き、展示してある万葉時代のあらゆるもの、服装や髪形、当時の官人の食べものなどすべてに魅せられてしまったのですが、その中でも特に注目したのが靴。
まるでペルシャ地方を思わせるような異国情緒ただよう形。
そういえばいろいろ展示してあったなかに、万葉時代のファッションは遠く西アジアのほうから中国の唐を経由して流れて来ているという説明書きがありました。
この質素な地方行政府で官人たちはどんな地方行政を、そしてどんな儀式を行っていたのでしょうか。
当時の役人たちは服装の色や形、装身具で位の上下を表していたようです。
青、緑、紫、赤、黄…、
しかし今の若者が着ているような派手な蛍光色のものではなく、清楚な色合いだったと思います。
春の淡い陽光に照らされて、この空間のなかでも、清楚な万葉色をかもし出していたのでは… 頭に浮かびます。


春という季節は始まりの季節ですね。雪が解け、木々が芽吹き、会社や学校では新学期が始まります。
その反面、春はどこかはかない感傷的な面も持っています。旅立ちの時でもあります。
春というのは冬から夏に移り変わっていく微妙な時期にあたるわけです。
急にあたたかくなったかと思えば、また寒さがぶり返したり。
季節の歩みが一進一退なのです。
その冬から夏に移り変わる微妙な一瞬を彩る花が桜ですよね。
桜が咲いているのはほんの二週間程度です。はかないものです…。
でもそのはかなくも鮮やかに春を彩る桜の咲いている一瞬が僕は好きなのです。
伯耆国府は奈良時代の中ごろに造営されたようです。
その時からすると、一二五〇年後の今、
こうやって国庁跡でサッカーができるなんて幸せではありませんか。少年たちがそれをどこまで意識しているかはわかりませんが。
でもなかには歴史好きの少年もいるかもしれません。
雪が解けて春の淡い陽光のさすこの季節、当時の地方行政官たちがどのようにこの時を感じ、日々を送っていたのか…

もうじき一か月もたたないうちに桜の咲き誇るその一瞬(とき)は来ます。
三月の風に…