因幡の国司

奈良時代から平安時代にかけての、比較的名前の知られた因幡国司を紹介します。



  船秦勝 (ふねのはたかつ)  守。従五位下。文武四年(七〇〇)、因幡国守として最初に名前が登場。朝廷から封三十戸を賜った。その二年前に銅鉱を献上したことが認められたのか。百済からの渡来人系官人。

 
  多治比家主 (たじひのやかぬし)  守。従五位下天平九年(七三七)任。祖父・嶋は左大臣、父・池守は大納言の上級貴族出身。



  当麻鏡麻呂 (たいまのかがみまろ)  守。従五位下天平十年(七三八)任。国分寺・尼寺の建立準備。


  大伴稲公 (おおとものいなぎみ)  守。従五位下天平十三年(七四一)任。大伴旅人の弟。家持の叔父。万葉集に歌を残す。在任中、従五位上に昇進。国分寺・尼寺の建立工事。



  小田王 (おだおう)  守。従五位下天平十八年(七四六)任。因幡国が悠紀国に定められ、正五位下から正五位上へ昇進。

  和気王 (わけおう)  掾。正六位上。のちの天平神護元年(七六五)謀反に連座して誅される。

  林佐比物 (はやしのさひもつ)  掾。正六位下因幡東大寺高庭荘の寺田地を点定した。




  大伴家持 (おおとものやかもち)  守。従五位上天平宝字二年(七五八)任。翌三年正月元旦、因幡国庁で『万葉集

最後の「新年を寿ぐ歌」を詠む。『万葉集』の編纂者ともいわれている。三年半の在任中、新羅遠征計画により山陰道諸国に

船百四十五隻の建造が命じられた。




  粟田道麻呂 (あわたのみちまろ)  兼守。従四位下天平宝字八年(七六四)任。式部大輔などの兼務。和気王の謀反に与したとして飛騨員外介に左遷。そこで死去。


  大伴潔足(おおとものきよたり)  介。従五位下神護景雲元年(七六七)任。その後、宝亀元年(七七〇)に守へ昇進。翌年、因幡国が主基国に定められ、従四位上へ。帰京後、参議にまで出世。



  佐伯今毛人 (さえきのいまえみし)  兼守。従四位下神護景雲三年(七六九)任。東大寺造営に功績。長岡京造営に関与。のちに太宰帥となる。


  和気清麻呂員外介 (わけのきよまろ)  従五位下神護景雲三年(七六九)の有名な宇佐八幡神託事件により本宮を解かれ、因幡へ左遷されたが、『続日本紀』は「いまだ任所(因幡のこと)に行かざるに、詔あり、除名して大隅に配す」と記す。



  広川王 (ひろかわおう)  守。従五位下宝亀八年(七七七)任。因幡国がみぞうの風水害に見舞われ、飢饉の百姓三千余人と、『続日本紀』は伝える。

  
  紀白麻呂 (きのしろまろ)  介。従五位下宝亀十一年(七八〇)任。藤原種継事件に連座、配流。のちに許された。


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  氷上川継 (ひかみのかわつぐ)  守。従五位下延暦元年(七八二)任。任命直後に謀反のことが現れ、赴任しなかった。伊豆三島に配流。のち許されて伊豆守となる。


  淡海三船 (おうみのみふね)  兼守。従四位下。大学頭と兼務で延暦元年(七八二)任。延暦四年(七八五)死去。漢詩集『懐風藻』で有名な詩人。



  因幡国では、平安時代になると、『百人一首』で有名な「稲葉山」を歌った在原行平因幡国の介の因幡千里を殺害した橘行平、『時範記』を残し、四十二日間しか滞在しなかった平時範鎌倉幕府の政所別当になった大江広元らの名前があります。まさに多彩な国司たちが因幡の統治にかかわっていたことがわかります。




 先月、予期せぬ大震災が発生し、ずっと気持ちが沈んでいました。

今も引きずっています。それは、日本国民すべてがそうであると思います。

そして義援金募金、致しました。

早い復興を願います。





最近、太陽光線の角度が少し高度を増してきて、辺りが輝いて見えます。

海の色もとても青くなって来ました。





桜の開花を前にして。