悠紀殿、求めて



あおによし 奈良の都は 咲く花のにほふがごとく 今さかりなり




夕方、平城遷都1300年祭の余韻の残る、この奈良の平城宮跡に着きました。
少し日が永くなってきた今日この頃。
風は冷たかったですが、空は晴れ渡っていました。


これは復元された宮内省の建物です。
いろんな史料をもとに復元されていますので、おそらくは、このようなものだったろうと思います。
柱の色、屋根の形、白い壁、質素で落ちついた色合いが、奈良の都を、万葉時代を、蘇らせてくれます。うれしいかぎりです。
この一角を見るだけでも、頭の中ですべてが蘇ってしまいます。


そしてこの建物のすぐとなりに遺構展示館があります。
そこの管理人のおじさんは、とても表情豊かに展示物の説明をしてくれました。
見るものすべてが驚きでした。
出土した木簡や柱など、とても1200年以上も前のものには見えなかったのです。
それらを見ていると、当時の平城京の街並みから行き交う人の姿まで頭に浮かんでくるようでした。
遺構展示館は必見だと思います。
また、人と接して生きた言葉を自分の耳で受けとめるというのは、活字を目で追うより瞬時に身についてしまうものです。そしていつまでも心に強く残ります。管理人さんの熱意が伝わり、また遺構展示館で見たすべてのもの、自分としては大きな収獲でした。


そして、
大学時代何度も通ったこの道。
友人と車で通ったこともあれば、自転車で通ったこともある。
かつての聖武天皇の居所を横目で見ながら。
大伴家持は、都の北の山の麓に近く、佐保川にも近い所に住んでいたようですが、それはこの道のもう少し前方のあたり、もしくはその少し南方になるのでしょうか。



平城宮跡のすぐ北に水上池がありました。万葉集でも語られているので、かなり前からこの池はあるようです。
池の向こうに見えている丘陵は奈良山丘陵です。
古代京都を示す“やましろ”という地名は、“やまうしろ”、つまり山の後ろという言葉がつづまってできたという説があるようです。
当時、政権の中心地だった平城京からすれば、京都はこの奈良山丘陵の後ろ、山の後ろだったわけです。


家持もこの池を見ながら空想にふけっていたのでしょうか。
奈良の地は山の線がやさしいですよね。



“悠紀の国”という言葉の響きがすっかり気に入ってしまった自分。
悠紀の国は天皇の即位後に行われる大嘗祭にあたり、悠紀殿での夕御饌(ゆうみけ)として供進するための新穀を献上するように定められた国。
そしてその悠紀殿は、大嘗祭に際して造営される大嘗宮のうち、東方に設置される殿舎なのです。
大嘗宮の建設地は、古くは大極殿または紫宸殿の前とされ、造営前に地鎮祭を、完成後に大殿祭を行っていました。


悠紀殿はどのあたりに建てられたのか。
ここは、天皇が普段住んでいた内裏跡。



復元された第一次大極殿です。
まばゆいばかりの光りを放っているようで、神々しいですね。




前方は朱雀門です。
いにしえ人たちは、どういうふうにこの壮大な光景を眺めていたのでしょうか。



悠紀殿、
あの、大極殿の付近に大嘗祭の時に建てられたのでしょうか。

これは、第一次朝堂院跡です。
公の儀式や、外国からの使節を迎えたおりに行う宴会や、馬上から弓で的を射る競技、騎射(きしゃ)などが行われました。

色とりどりの装束に身を包んだ当時の官人たちがこの広い庭を行き交っていた光景が浮かびます。




平城京は七一〇年から七八四年まで、七十四年にわたって存続した都城です。
その間、元明・元正・聖武孝謙淳仁・称徳・光仁桓武の八代七人の天皇の治世でありました。
唐の長安をモデルとしていますが、むしろ藤原京を基準にしているようです。規模や存続期間の長さの点から日本初の本格的都城でありました。

これは復元された朱雀門です。



今、自分にはこの時代が輝いて見えます。
飛鳥から奈良時代に至る、いわゆる律令制が成立して行く時代。
ずっとずっと輝いていて、永遠の光りを放ち続けているようです。



今では大学当時以上に奈良に、愛着があります。
そして奈良を見る目がまったく違っています。
現在進行形ではなく、過ぎ去ってしまったからこそ、その時代の良さがわかるのかもしれません。



久しぶりにこの奈良の地をしっかりと踏みしめ、少し夢を見させてもらいました。
勉強しなかった大学生当時、日々遊びに明け暮れて…。
でも、それはそれで貴重な心の財産なのです。
もう、戻らぬ日々、かけがえのない友との出会い。
いつまでも心の中できらきらと輝いていて、それをそっと心の引き出しの中にしまい、
四年間過ごした、思い出のいっぱいつまったこの奈良に、
ひとまず別れを告げ、

      そして…



悠紀の国へ…。