下ツ道を通って


古代、奈良盆地には南北に三本の道が走っていました。
東から、上ツ道、中ツ道、下ツ道。



このうちの下ツ道は、平城京の中心となる朱雀大路にもあてられ、さらにその痕跡は
平城宮内を貫通して北に延びていたようです。
そして、奈良盆地における条里制施行の基準線としても利用されていました。



下ツ道は、朱雀大路から羅城門をくぐってそのまま下ツ道となり、さらに南下すると藤原宮跡の西、西二坊大路につながり、
平城京の東四坊大路につながる中ツ道は南下すると藤原宮跡の東、東二坊大路につながり、
上ツ道は奈良盆地の東側を通り藤原宮跡では安倍山田道となって九条大路付近につながるようです。



平城遷都、それは藤原不比等の野望もあったかと思われます。



七〇八年二月十五日、平城京への遷都の詔が出されました。
その前年、彼女は菅原(すがわら)に行幸して、あたりを視察しています。
宮城を建設する地点は以前は菅原とよばれていました。
そして七一〇年三月十日平城遷都、一行は中ツ道をとります。


    飛鳥の 明日香の里を 置きて去なば

          君があたりは 見えずかもあらむ



この歌は、途中の長屋原(奈良県天理市付近)で詠まれたものです。
とても、物悲しげです。
その後ここからどこをどう通って、平城宮に至ったのか、
下ツ道は、羅城門をくぐってそのまま朱雀大路となり平城宮に至っています。



彼女はこの門をくぐりました。
その名は元明天皇




そして七十余年に渡る平城京の時代がここから始まるのです。